人間は「道具連関」の中でしか生きられない

さて、「現存在」(人間)はただ存在しているだけではなく、生きて日常の行為をしています。この行為のとき、いつも道具を使っている。だから、身の回りの事物は「道具的存在」(Zuhandenseinツーハンデンザイン)だとハイデッガーは名づけます。

「現存在」が何事かをするとき、その目的に達するための手段として道具を使っているので、「現存在」と道具の間には「道具連関」があるといえます。そして「現存在」はつねに「道具連関」の中で生きている、また、その「道具連関」の中でしか生きられない。

したがって、「道具連関」こそ「現存在」が生きている場所です。その場所こそがすなわち世界であり、したがって「現存在」が住んでいる場所は「(道具連関の)世界内存在」(In-der-Welt-Seinイン デア ヴェルト ザイン)だ、ということになります。

その世界に「現存在」がみずからの意思で入りこんでいるのではなく、「現存在」はすでに投げこまれてしまっている状態です。これを「現存在」の「被投性」(Geworfenheitゲボオルフエンハイト)といいます。

最期をみとる手元
写真=iStock.com/kazuma seki
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自分のあり方が時間をつくっている

「現存在」である人間は道具連関の世界の中に投げこまれて生きていますが、何か事物を道具として用いるのは、その人のそのときの欲望、必要性、関心に応じているということであり、そのことをハイデッガーは「気遣い」(Sorgeゾルゲ)と名づけました。

何か物を見てこれは何々に使えると思うことも「気遣い」です。そのとき、道具として見える物は「現存在」のなんらかの可能性を実現化するものの1つとして見えているわけです。

要するに、人間は自分が生きていくために役立つ可能性のあるものを世界にある物からチョイスして自分のために利用しているということです。

「気遣い」の意味にはその他に、関わりあうこと、探ること、論じること、問うことまでも含まれています(これはもちろんふつうのドイツ語としてのSorgeの使い方ではなく、ハイデッガーがそういう広い意味を含んだ造語にして用いているのです)。

しかも、その「気遣い」を左右しているのは「現存在」の「情状性」(Befindlichkeitべフイントリッヒカイト)だというのです。これは、「現存在」が何事をするにもそのときの気分に動かされているということです。

しかも、その「情状性」は「気遣い」と結びついて、今ここの世界の意味(その人にとっての意味)を構成しているのです。

時間の感覚もまた、「情状性」に動かされています。退屈だったら時間が長く感じられるというふうに。そしてまた、いつものような日々がえんえんと続くかのように錯覚しているのです。

自分のあり方が時間をつくっていることに気づいていないのです。

また、知性すら、この「情状性」を基盤にしているとハイデッガーはいうのです。