家出なのか徘徊なのか

同じ頃、母親はデイサービスに通い始めていた。調子が良い日と悪い日を繰り返しながら、それでも良い日のほうが増えてきたように感じていた5月上旬。突然母親が荷造りをし、家出を繰り返すように。

「私の家はここだけど、みんなに迷惑かけてるから出て行った方がいい」「こんな姿(紙おむつ)になって、情けない」

そう言って荷造りをする。

その度に妻や妹が、「どこにも行かないで」「迷惑じゃないよ」「紙おむつやめてもいいよ」となだめ、荷造りした荷物を片付けるが、それでも母親は家出を繰り返した。

さらに、義母は幻聴が聞こえるようなことを言い出した。

「みんなが、おかしな人や、かわいそうな人やって言うんや。あの人は変な人なんやって、言うんや」

「誰が?」と問うと、「わからへん。後ろの方から。でも言うんや」。

暗い部屋で激しく泣いているシニア女性
写真=iStock.com/Hartmut Kosig
※写真はイメージです

2010年6月。母親が度々デイサービスを脱走。その度に職員たちは母親を探しててんてこ舞い。やがて母親は、デイサービスから受け入れを拒否されるようになってしまう。さらに母親は、妻にはわがままを言うが、宮畑さんの前では猫をかぶるように。

宮畑さんの妻は、介護疲れのせいか情緒不安定になることが出てきたため、宮畑さんと相談し、母親をショートステイに預け、その間に宮畑さんはしばらく妻を東京の家に行かせ、自分が信州で母親の介護をすることを決断。

妻と母親を離れさせてから数週間が経った6月末頃、妻は声が出なくなってしまった。心療内科にかかると、おそらくストレスによる失語症だと言われたが、2週間ほどで妻は声を取り戻した。

そして妻は信州に戻り、母親との同居を再開。ところが8月下旬のある晩。あろうことか母親は、「あんたとは合わないんや。ここはお兄ちゃんの家なんやから出ていったら?」と妻に言い放つ。

絶句して立ち尽くす妻を前に母親は、「じゃあ、私が居候やいうことか?」と迫る。

9月になると、8月にいったん戦線離脱していた妹が、妻のピンチを察して再び手伝いに来てくれた。

しかし2011年1月下旬。ついに妻がギブアップを宣言。宮畑さんたちは話し合った結果、母親は宮畑さんの東京の家で暮らすことになった。妹も東京に移動し、時々ショートステイを利用しながら、きょうだい2人で介護する。

2011年2月。認知症専門医を受診。ひととおり母親と話をした専門医は、「認知の低下は認められず、認知症ではないと思います。近くに良い精神科があるので紹介しましょうか?」と言った。宮畑さんはすぐにお願いした。

東京で仕事をしながら、妹と2人で母親を介護する生活に限界を感じていた宮畑さんは、新しい精神科に通いながら、介護施設の見学を妻と母親との3人で始めた。

4月。信州にある認知症専門のグループホームに入所。宮畑さんはいつグループホームの退所を迫られても良いように、精神病院や有料老人ホームの見学を進めた。