もう誰も泣けない
2011年の夏ごろから約10年間、都内の有料老人ホームに入所していたが、せん妄の激化と母親自身の貯金を使い果たし、経済的にこれ以上入所し続けることが難しくなったため、2021年11月に退所。再び信州の宮畑さんの家での在宅介護に切り替えた。
信州に移った母親は、2009年の年末の時より症状が悪化しているように思えた。食べた直後から「ご飯はまだか?」と言ったり、夜中に起きてきて食事を催促したりするだけでなく、せん妄で一晩中のたうち回ったり、突如立てなくなったり、時には脱糞してしまうこともあり、宮畑さんと妻は「このまま死んでしまうのではないか?」と心配するほどだった。
しばらく信州で宮畑さん夫婦は在宅介護を続けたが、手に負えない状況を心配した宮畑さんの妹が、「うちでしばらく預かろうか?」と申し出てくれたため、2022年4月に母親(79歳)は関西の妹の家へ移った。
これまで母親は、宮畑さんがいないと妻を介護職員扱いし、「早くおむつを替えてよ」などと言っていたにもかかわらず、関西へ向かう車の中で突然、「すごく感謝してる。本当によくできた奥さんだと思う」と妻に向かって頭を、宮畑さんは、「多重人格者か」と思った。
「もしも私がサラリーマンだったら、2009年の12月に、即施設に入れたと思います。施設は病院ではないから、良くしようとは思わない。冷たい言い方かもしれませんが、下手に治そうとしなければ、母はもっと早く死ねたのかもしれないと思います」
宮畑さんは言葉を選びながらも苦悩の表情で言った。
「長生きされて誰が困るって、介護している家族です。正直うちは裕福な家庭ではない。だから必ず犠牲が出ます。私は犠牲になる覚悟をしましたが、一家の大黒柱である私は働かなくてはならない。それで犠牲を負ったのは妻です。失語症になるまで一生懸命やってくれて、申し訳ない気持ちでいっぱいです」
母親は40代で甲状腺機能低下症を患った。宮畑さんは、「薬がなければその時亡くなっていた」と続ける。
「あのとき亡くなっていたら、私は泣けました。今じゃたぶん、誰も泣けません。約5年前、母は一度回復した時に、『楽しい人生だった、これ以上誰にも迷惑を掛けたくない。いつ死んでもいい』と言っていましたが、今はコロッと変わって、『長生きしたい』と言っています。『何を楽しみに?』と聞くと、しばらくぼーっとして、『何も』と答えます。生きるために生きているんです。食べることだけはキッチリしていて、時間になると鳩時計みたいに食事を待っています。家族が『やっと死んでくれた』と思うまで生きるのって、どうなんだろうと思います」