綜合力とか経営センスというのは、月光仮面のようなものだ(古い話で失礼)。「どこの誰かは知らないけれど、誰もがみんな知っている」。経営者としてのセンスがある人とない人がいる。その違いは厳然としており、誰の目にもわかる。しかし、「じゃあセンスって何?」という話になると、誰も一言では説明できない。
経営センスという月光仮面の正体を、三枝さんはさまざまな角度から言語化してくれている。そのひとつが「因果律のデータベースが豊かなこと」。経営を構成している多種多様な要素のうち、どこのボタンを押したら、どんなことが起きるのか、それがほかの要素にどのように波及して、次に何が起こるのか。こうした因果律の引き出しの量と質が経営者に求められる資質だと三枝さんは喝破する。
ただし、ここがポイントなのだが、経営における因果律は、自然科学が定立する法則とは異なる。「こうしたら必ずこうなる」という一般性、再現性がない。現実の経営における因果はその企業のそのときに特殊な文脈に埋め込まれている。会社が違えば同じアクションが違った結果を生み出す。同じ組織の中でも、時間が異なれば、以前とは違ったリアクションが出てくる。つまり経営における因果律はあくまでも擬似的にしか存在しない。置かれた文脈に応じてアウトプットが毎回変わってくる。ここに経営の難しさがある。
三枝さんは言う。因果律の引き出しを豊かにするためには、経験を積んでセンスを錬成するしかない。仮説を現場で試し、失敗したらまた仮説を考え直して実行し、まただめだったらもう一回……と試行錯誤していくしかないのである。仮説と現実のあいだを往復することで、自分のまずかった点を抽象化、論理化できてはじめて応用が利くようになる。現実現場の文脈の中での具体的な経験に基づいているけれども、最終的には文脈を超えて応用が利くようになった「論理の束」、これが経営者のセンスを形成している。
この連載でも紹介した(>>記事はこちら)柳井正さんの『一勝九敗』も同様のことを言っている。経験を積むだけでは意味がない。ひとつひとつの経験が論理化されていないと必ず同じ失敗を繰り返す。論理レベルに抽象化できていれば勘がはたらく。目の前に起こっている経験したことのないような事態にも、実は過去にやった同じ方法論が通用するのではないか、という直観である。
要するに、直観と論理は表裏一体、コインの裏表の関係にある。直観的な意思決定ほどその背後に深い論理を必要とする。抽象化や論理化という作業は、個別具体の経験を将来に応用するためのタグづけみたいなものなのだ、と三枝さんは言う。タグの量と質を向上させるためには、経営者として場数を踏むしかない。人間が年をとるほど賢くなるというのはそういうことだ。若者に「太刀打ちできない」と思わせるような人物は、因果律のデータベースが尋常でなく発達しているタイプの人である。
「育成しようとしても直接的には育成できないのが経営人材」というスタンス、ここに三枝さんの話の妙味がある。経営人材は「育てる」ことはできない。当事者が自分で「育つ」しかないのである。だとしたら、経営は何をできるのか。これがミスミの経営者としての三枝さんのテーマである。経営人材を直接育成しようとするのではなく、経営者人材が自ら育つための仕組みなり、土壌なり、文脈を社内に組み込む。ここに経営トップの仕事があると三枝さんは言う。