神戸連続児童殺傷事件(1997年)など重要な少年事件の裁判記録が廃棄されていたことが神戸新聞の報道で明らかになった。報道を受け、最高裁判所は保存期間が終了した裁判記録を当分の間、廃棄しないよう全国の裁判所に通知した。なぜこのようなことが起こったのか。『記者がひもとく「少年」事件史』(岩波新書)の著者、毎日新聞の川名壮志記者は「時間が経てばゴミとして処分するという考え方は、裁判所の常識だ。特例で保存されるケースもあるが、その判断基準は世間の感覚と大きくずれている」という――。
殺害された小学校6年生の土師淳君の頭部が置かれていた神戸市立友が丘中学校の校門(兵庫県神戸市須磨区)
殺害された小学校6年生の土師淳君の頭部が置かれていた神戸市立友が丘中学校の校門(兵庫県神戸市須磨区)(写真=山井書店/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons

裁判の記録って、捨ててもいいの?

1997年、14歳の中学生だった「少年A」。酒鬼薔薇聖斗という名で知られる少年が起こした神戸連続児童殺傷事件の記録を、裁判所が捨てていた。

このニュースを目にして、多くの人はこう思ったはずだ。

「えっ、裁判の記録って、捨ててもいいの?」

――答えは、イエス。

ある一定の期間がすぎれば、裁判記録も「ゴミ」なのだ。意外なことかもしれないが、裁判所は、世間でブームになるよりもずっと前から、はやりの「断捨離」をしていたのだ。

裁判所は、つい数年前まで、ほとんどの記録を捨てていた。時間がたてばゴミとして処分。その考え方が「原則」だった。残しておくことの方が「例外」。

そう、あまり知られていないが、じつは保存しておくケースの方が「特例中の特例」だったのだ。たとえ裁判の記録が公文書であっても、裁判所は長らくそうした運用をつづけてきたし、捨てることは、少なくとも違法とはされなかった。

たしかに、捨てていかないことには裁判の記録は増える一方でもある。書庫もパンクするだろうし、日々ふくれあがる紙の資料をすべて残しておくことはできない。それが、裁判所の論理だ。

裁判所では「捨てる」がデフォルト

そうは言っても、である。

酒鬼薔薇事件ほどの重大な裁判記録まで捨ててしまうのは、いかがなものか。

ごく一般の生活者の肌感覚からいって、「捨てないだろ、普通」と思った人が多いのではないだろうか。

今回の「少年A」の「記録廃棄」問題が明るみに出たあと、ほかの重大な少年事件の記録も、ほとんど捨てられていたことがわかった。これを受けて、最高裁が廃棄問題を検証するという事態にまで発展している。

少年事件を20年ほど取材している新聞記者の私は、最初、この展開にびっくりした。世間の非難にもおどろいたし、最高裁の迅速な対応にもびっくりした。

なぜか。裁判所はそもそも記録を捨てることがデフォルトだからだ。捨てたことを世間から非難される筋合いはない。裁判所がそう思っていても、おかしくはないのだ。

ただ、おどろいた理由は、それだけではない。

少年事件には、オトナの事件とは違うルールがはたらいているからだ。たとえ記録を保存していたとしても、それは日の目を浴びることを前提にしていないじゃないか! 処分しようが保存していようが、どっちにしたって見ることができないじゃないか! 

つねづね私は、そう思っていたから、この件について最高裁が動いたということにおどろいたのだ。