校内暴力、学級崩壊が起きるようになった原因
いったん自尊心への脅威だと見なすと、脳はただちに「攻撃モード」になるので、相手の言葉に耳を貸そうとはしない。この時点で、もはや熟議も説得も不可能になっている。
かつては、年長者(先輩)は年下(後輩)に、男は女に優越的に振る舞うのが当然とする文化規範があった。共同体の構成員全員がこの規範に従うのなら、「身分」に則った言動が自尊心を傷つけることはない(みんな同じで、しかたのないことだから)。
教育が成立するには、教師と生徒は「身分」がちがわなければならない。「学校はそういうところ」という合意が教師や生徒、親(地域社会)のあいだで成立していてはじめて、教師は生徒を叱りつけることができる。
ところが社会のリベラル化が進み、生徒が教師と対等だと思うようになると、叱責は自尊心への攻撃と見なされる。こうして教師―生徒の制度的な枠組みが壊れ、「校内暴力」や「学級崩壊」が起きることになった。
近年、生徒たちがおとなしくなったのは、教師が生徒と「友だち」として接するようになり、自尊心を傷つけなくなったからだろう。
若者が「よろしかったでしょうか」と話すワケ
社会がリベラルになり、すべてのひとが平等の権利を保障されるのはもちろんよいことだが、人間関係がフラットになると、どんな言葉が相手を傷つけるかわからなくなる。
こうして若者たちは、「よろしかったでしょうか」のような過剰な敬語を使うようになり、会社でも上司が部下に敬語で話しかけるのが当たり前になった。
いまや、すべての会話が相手の自尊心を傷つけないよう、細心の注意を払って行なわれている。――興味深いのは、アメリカでは平社員が上司ばかりか社長まで名前で呼び捨てにするという逆の方向(カジュアル化)で形式上の平等が達成されていることだ。