「通常、本震の後に来る余震はマグニチュードで1引いたぐらいが最大の規模なんです。ところが翌日に5.5どころか6.4、最初とほぼ同じものが起きてしまった。これは余震というにはあまりに大きすぎると過去事例を改めて調べてみたら、1968年のえびの地震や2003年の宮城県北部地震で似たような起こり方をしていたので、『油断しないでください』と警戒を呼び掛けたんです」

中学時代からひたすら続けてきたデータ、ニュースの収集、蓄積が、緊急時の貴重な注意喚起の礎になったわけだ。

「当時は何も考えずただ一心不乱にやってただけなんですけど、あの頃の私に『がんばれ』って声をかけてやりたいとほんとに思います。『無駄なことじゃないんだぞ』と」

気象・地象に関する新聞記事のスクラップも、中学時代からのものが揃っている
撮影=プレジデントオンライン編集部
気象・地象に関する新聞記事のスクラップも、中学時代からのものが揃っている。こうした資料や記録のひとつひとつが、震災時にいち早く警戒を呼びかける上での礎になっている。

やっぱり気象の仕事が好きなんだ

気象予報士という仕事は、まさに天職だと感じている。

「自分の根っこのところを出し切れる世界だと思ってます。気象史、地象史、そして『観測とは』とか、他の予報士さんの得意分野とはちょっと違うところを積み重ねてきて、それを解説に生かせているのはすごくやりがいがあります。長くやっていると大事な場面での予報が当たらないなどで心が折れそうになったこともありましたけど、それでも辞めなかったのは、やっぱり気象の仕事が好きで、これしかないんだっていうのがあったんでしょう。ウェザーニューズには、今まで25年働かせてもらってありがとうございますって感じです」

予報センターに異動した際、彼は総合職から専門職への雇用形態変更を願い出た。野村克也氏の「生涯一捕手」ではないが、「生涯一気象解説員」で行くと決めたわけだ。

だからこそ、解説員の仕事には覚悟と矜持を胸に臨んでいる。

山口氏
撮影=プレジデントオンライン編集部
解説員の中では地震関係の第一人者の立場にあるだけに、いざ震災が発生して出演要請がかかれば1年365日24時間、いつでもスタジオに駆けつける覚悟でいる。

「9時から5時まで働いたんで帰りますっていうのは通じない世界なんです。大きな地震が起きたら、出勤時間前だろうが走って予報センターに出てきますし、退勤時間後まで引っ張られようがいくらでもやります。休日だって、どこか遠くへ旅行なんてしません。元々インドア派というのもありますけど、それより会社のある千葉から離れるのが怖いんです。地震関連の解説員としては一応最初に名前が上がる立場でやらせていただいているので、何かあって番組出演要請がかかった時に『ごめんなさい、今日は休みなので行けません』はあり得ない。365日24時間、気象にしても地震にしても人間の活動なんて考えてくれませんから、自然現象に追随するにはそれぐらいの気概がないと」