信教の自由を盾に、子どもの虐待が続いてしまう
戦後日本で信教の自由は最大限尊重されてきた一方、国民の多くは無宗教を自任し、必ずしも宗教に好意的ではない。反社会的で国家の主権も脅かすような宗教に敵意を向けるのは、何もフランスにかぎった話ではない。日本でも十分に起こりうる現象である。
反教権主義はフランスのライシテの一面だが、その背後には個人の弱みにつけ込んで搾取する集団は許さないという人権の理念がある。集団から解放された個人が、市民として政治に参加し主権を下から作りあげるのが共和国のあり方である。
セクト問題について言えば、とりわけ未成年者をセクト的逸脱から保護する必要があるとの意識がフランスでは高い。子どもに対する虐待があると教師や医師などからの指摘があり、実際に問題があると認められれば、子どもを親から引き離すことができる。
日本では、子どもに対する虐待が疑われても、信教の自由を盾に取られると、なかなか踏み込めずにここまで来たのではないだろうか。宗教集団のなかでの人権侵害があっても、自己責任で済ませてきたところがあったのではないか。
日本の実情に即した反セクト法は制定できるか
たしかにフランス流の人権は、そのままの形では日本社会になじみにくいところがあるかもしれない。しかし、日本社会にも立場の弱い者を搾取するのは許せないという感覚や、被害者の経験に心を痛める共感能力は、すでに現実のものとしてあるはずだ。
被害者への憐憫の情の感覚と、日本の主権が脅かされているという危機意識とが噛み合うとすれば、それはフランス的なライシテの理念とも十分に共鳴するものになりうる。そのような力に支えられてこそ、日本の実情に即した反セクト法導入の機運も高まるだろう。
とはいえ、反セクト法を制定できたフランスよりも日本の道は険しいかもしれない。フランスは国家がセクトを規制しようとして法律ができたが、なにせ今回の日本の場合はカルト的な団体が政権の中枢につながるパイプを持ち、そうした政治家たちの側も恩恵に浴してきたのだから。