政治家が有権者を選ぶことはできない

一般論として、政治家の元にはいろいろな人が出入りします。さらに言えば、「応援しますよ」と言われて「うちは間に合っていますから、結構です」と断われる政治家は、そうそういないでしょう。「よろしくお願いします」と答えるのが常です。

なぜなら、有権者は政治家を選べますが、われわれ政治家は有権者を選べないからです。政治家というのは1票でも欲しい。1票差でも負けるときは負けるんですから、「選挙の手伝いに行きますよ」と言われたら、「ありがとうございます」と受けるものなんです。

いわんや「反共産主義」を掲げて、「自由と民主の社会づくりに協力します」と言われれば、保守の政治家なら歓迎するのが自然です。政治家にはそれぞれ思想・信条があり、政党は同じ考えや同じ目標・目的をもつ者同士のつながりです。「私はあなたの考えに共鳴します」「あなたの党のビジョンに賛同します」と近寄って来られたら、なかなか拒めるものではありません。

旧統一教会に選挙の応援をしてもらった政治家も、民主的手続きの中で当選することが先決だと考え、善意としてありがたく受けてしまった人が多いのだろうと思います。

2016年の参議院選挙のポスター掲示板の前を通り過ぎるシニア女性
写真=iStock.com/electravk
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会うことなしに善悪の判断はできない

政治家といえど、近づいてくる相手の打算なり下心を、たやすく知るすべはないのです。いろいろな話が持ち込まれる中には、どんなに耳あたりがよくても詐欺めいた話だってあります。そんなとき、政治家の受け止め、器量、さまざまな判断が出てくるものです。

私の場合は、素性のわからない団体からイベントなどの案内が来たら、事務所の者に必ず調べさせます。その結果、たとえば共産党の関係団体がやっている集会だとわかれば、目的が平和活動だとしても行きません。 

いろいろな相談も持ち込まれます。私は人に会うとき、最初から「善い人」「悪い人」と決めつけません。「人には会ってみろ、添うて見よ」という感覚で、きちんと話を聞いてから、「これは危ない。乗らないようにしよう」と判断します。ひと呼吸入れて、私なりの頭作りで考えることにしているんです。

どう見ても理不尽、無理筋だと思ったときは、明解に断わります。「これはダメ。あなたのその考えは受け入れられません」すると「おまえなんか応援しない」と捨てぜりふを吐かれることもあります。はっきり断わらないと、相手に妙な期待を抱かせることになり、禍根を残すもとになりかねません。

だから中には、何年もたってから「かつて鈴木先生に依頼を断わられた。あのときは腹が立ったけれども、結果的に先生の言う通りだった。感謝しますよ」と言ってくる人もいます。