※本稿は、八幡和郎『安倍さんはなぜリベラルに憎まれたのか』(ワニブックス)の一部を再編集したものです。
尊王攘夷を掲げた長州人と皇室との距離感
明治維新を「尊皇攘夷」を旗印に成し遂げた長州の政治的伝統を引き継ぐ、政治家・安倍晋三にとって、日本国家の背骨ともいうべき皇室制度を揺るぎないものにすることは、最大の関心事であり続けました。
しばしば誤解されますが、長州の政治的伝統において、尊皇とは君主独裁を理想としているのではありません。むしろ、近代国家における独立と統一の要として、適切な君主を育て、盛り立てることこそ、目指すべきものです。
たとえば、明治憲法を起草した伊藤博文は、明治天皇の信頼も抜群で、伊藤の暗殺以降、明治天皇はすっかり気落ちし、健康を害されることになったほどです。
伊藤は明治天皇の言うがままだったのではなく、天皇親裁主義と戦い、立憲君主として教育し、最終的な調停者として活用もしました。
かつては政治家が皇族の教育に関与した
一方、天皇もしばしば伊藤のために助け船を出しましたが、あくまでも熟慮のうえのことでした。また、明治天皇は伊藤にできるだけ政権に留まるよう希望しましたが、伊藤がそれを常に受けていたわけではありません。
伊藤は立憲君主制が円滑に動くように、宮中改革を要求しましたし、また、皇太子(大正天皇)の教育にも介入し、有栖川宮威仁親王を東宮補導とするよう取り計らうなどしました。君主制においては、政府が宮中の体制整備や若い皇族の教育に関心をはらうべきであって、戦後の政治家がそれを怠っているのと、大正天皇や昭和天皇の教育に政治家が熱心に取り組んだのと好対照です。
また、山縣有朋は、晩年の明治天皇が会議のときに居眠りをされたら、杖で大きな音を立てて注意しましたし、皇太子時代の昭和天皇が威厳を保つように無口であるように教育されているのに驚愕して、「石地蔵の如し」と怒り、貞明皇后や家庭教師から引き離して、ヨーロッパ歴訪の旅に出すことを実現しました。