女系継承を推進する小泉首相のブレーキ係

安倍さんも、理想とするところは、そうしたものだったのでしょうが、戦後は藩屏はんぺいといわれる華族もいなくなり、昭和の終わりごろから、側近のご意見番もいなくなりました。いわば、中小企業のオーナー一家と従業員でしかない宮内庁の職員といったようなことになってしまったので、歴代首相と陛下の密度の濃い会話はできていないのです。隔靴掻痒のところがあったように見えました。

安倍さんが皇室との関係で注目されたのは、小泉内閣の官房長官のときで、女帝・女系継承を推進する小泉首相にブレーキを掛ける役割だったときです。

万世一系とされる皇位継承ですが、江戸時代の後半には、何度も薄氷を踏む思いがありました。近世皇室の再建に尽力した豊臣秀吉のころの後陽成天皇やその子の後水尾天皇は子だくさんでしたのでしばらくは順調でしたが、1779年に亡くなられた後桃園天皇ののちは血縁が近い皇族が不在で、親等の離れた光格天皇が即位されました。

そののちも、成人した親王が一人ずつでしたので、有栖川宮、あるいは伏見宮系統に皇位を継がせることが想定されていました。

皇位継承候補者がいなくなる想定外の事態

明治天皇の男子でも成長したのが大正天皇ただ一人でしたので、有栖川宮家が控えの立場にあったのです。

しかし、大正天皇の御妃選びのとき、政治家たちは跡継ぎが得られやすいことを重視し、その結果、大正天皇と貞明皇后は4人の親王に恵まれ、とりあえずの危機は去りました。それを踏まえて、戦後、伏見宮家系統の11宮家も皇籍離脱しました。

そして、1980年代までは、皇位継承候補者がいないという状況は想定されていませんでした。当時の皇太子殿下(現上皇陛下)に2人の、三笠宮殿下に3人の未婚の親王がおられたからです。

ところが、三笠宮家の親王のうち桂宮さまは健康を害され、寛仁親王は2人、高円宮殿下は3人のお子様がいずれも女子でした。また、秋篠宮殿下も2人の女子のみ、皇太子殿下も2001年に愛子さまが誕生されたのち、雅子さまが体調を崩され、親王誕生が望み薄になってしまいました。

それを受けて、小泉純一郎首相(当時)は私的諮問機関「皇室典範に関する有識者会議」(吉川弘之座長)を設けたのですが、メンバーに利害関係者に近い人も多く、進め方も愛子さまへの継承はじめにありきであったので公正さに疑念がありました。