コロナ禍が佐渡の人々の心を柔和にした

そうこうしているうちに、世間はコロナ禍になってしまい、芸術祭の話は完全にストップした。

佐渡は東京の何倍もコロナに敏感な土地で、しばらくは来島することすらできず、プロジェクトは完全にストップした。

感染者数が落ち着いた折を見て島に出向き地権者を訪問した。しかし、感染者数は減ったり増えたりを繰り返した。撮影できる空気では全くなく、2019年、さらに次の年も断念した。

時間は、あっという間に過ぎて3年目に入ろうとしていた。

しかし、この3年と言う月日は、地権者と私の関係性を好転させた。3年という長い時間をかけて話してきたからか、徐々に信頼されるようになっていたのだ。

その結果、最終的には地権者の7割に賛同していただき、プロジェクトが実行できる見通しがたった。

地域の結束を高めるツールとしての伝統芸能

残るは、船に乗る芸能団体との交渉だった。

もともと人口が少ない状況で、コロナが重なり人集めは難航した。

加えて、集落内の神事や祭りの時以外に出したことのないものがほとんどなので、このような撮影に参加してもらうことが可能かどうかわからなかった。

私は可能な限り佐渡に現存する芸能を作品に落とし込みたいと思っていた。能、歌舞伎、文弥人形など、多種多様な文化を表現するために、複数の団体との交渉が必要だった。

私は芸能団体と繋がりの深い地元の関根勝義さんに芸能団体の橋渡しをお願いすることになった。

地元に住み続け、鬼太鼓を若手に教える立場になっている彼によると、佐渡に暮らす人たちにとって芸能とは、神社の神事の「盛り上げ役」であるという。その芸能が何十年(中には100年以上)と続いていくうちに、伝統芸能と呼ばれるようになった。

伝統芸能は各地域の各神社で、氏子の方々が先輩から後輩へ、親から子へと、口伝で伝えられてきたものが多い。祭りの1カ月ほど前から毎晩練習をし、酒を飲み、交流を図り、何十年も続けてきた。その練習や準備、飲み会を通じて、佐渡の人はコミュニティを形成していった。

私は関根さんとの会話で、佐渡の芸能は伝統を守るだけでなく、それが彼らの誇りとなって地域との結束を重ね、佐渡を守っているに違いないと思った。そうでなければ、みんなが島外に出てしまい、佐渡の文化の継承はとっくに廃れていたであろう。

調べれば調べるほど佐渡の芸能を作品として残したいという気持ちは高まるばかりだが、理想通りには物事は進まない。

私のコンセプトに共感し、協力してくれる団体は思ったよりも少なかった。

OKがでたところも「集落でコロナがでた」と言って断りの連絡が来ることもあった。

特に鬼太鼓と大獅子の組み合わせは、私が描いたイメージでは到底実現できそうになかった。