安永四年(一七七五)、重三郎はみずから吉原細見の出版を開始する際に、一工夫を施す。単に遊女屋の名前を列挙するだけでなく、仲の町を中心に上下に分けることで遊女屋の並びが一目で分かるようにした。こうして、重三郎が刊行した細見は人気を呼ぶ。
天明三年(一七八三)には重三郎が吉原細見の出版を独占するまでに至る。同じ年、蔦屋は一流どころの版元が店を構える日本橋の通油町に進出し、名実ともにトップクラスの版元となった。
浮世絵で競争を勝ち抜こうとした
出版メディア界の風雲児として躍り出た重三郎は戯作本にも手を広げる。例えば、人気作家の朋誠堂喜三二を作者とする版本を出版したが、その際には人気絵師の北尾重政や勝川春章たちに挿絵を描かせることで売り上げを伸ばしている。
吉原は江戸の文人たちが交流する社交場でもあり、吉原生まれの重三郎が彼らと知り合いになるのは難しいことではなかった。
重三郎の出版事業は一枚刷りの浮世絵にも及んだ。浮世絵師喜多川歌麿の創作活動をバックアップし、美人画の分野での名声を不朽のものとする。
歌麿が得意とした美人画は、盛り場の水茶屋で給仕をする若い女性のほか、遊女もモデルになっていた。人気浮世絵師の歌麿に描かれれば江戸の話題をさらい、その遊女を擁する遊女屋の営業成績もアップしたはずだ。
歌麿が描いた遊女は、玉屋や扇屋など吉原の代表的な遊女屋に所属していることが多かった。その主人がスポンサーとなって製作費などを負担し、蔦屋を通じて歌麿に描いてもらったのだろう。
重三郎が世に出した浮世絵師には、役者絵で知られた東洲斎写楽もいる。歌舞伎役者を描いた写楽の役者絵は芝居人気との相乗効果で江戸の話題となり、芝居の集客力もアップした。歌麿の場合と同じく、芝居の興行主からの要請を受けて写楽に役者絵を描かせたこともあったに違いない。
浮世絵などの錦絵の価格は、一枚二十四文が相場だった。かけ蕎麦一杯の値段より少し高いぐらいだから、江戸庶民でも手軽に入手できた。要するに、それだけ大量に摺られた。
吉原細見に加え、浮世絵という大衆メディアの力を借りることで吉原は集客アップをはかったが、これは非合法の岡場所ではできない芸当だった。メディアを活用することで、熾烈な競争を勝ち抜こうとしたのである。