その上、吉原と違って「台の物」と呼ばれた料理を別に頼む必要はなく、芸者・幇間に祝儀を払う必要もなかった。吉原で遊ぶよりもはるかに安くて済み、引手茶屋を通すなどの面倒な手続きも不要だった。

幕府の取り締まりは徹底されず…

江戸市中の各所に散在していたことも大きい。わざわざ江戸郊外の吉原まで出向かずとも、近くの岡場所に通えばよかった。こうして、岡場所はたいへん繁昌する。

妖艶な岡場所の女性たち(「岡場所錦絵」=国立国会図書館蔵)
妖艶な岡場所の女性たち(「岡場所錦絵」=国立国会図書館蔵)

門前に岡場所があるのは好ましくなかったが、当の寺社は見て見ぬふりをしていた。岡場所が境内の賑わいを増したことに加え、遊女屋という裏の顔を持つ料理茶屋などから多額の冥加金が納められていたからである。

そんな裏事情があったとは言え、寺社の境内や門前で遊女商売が横行したことは江戸市中の風紀を乱すものであり、町奉行所も看過できなかった。

遊女商売の独占を許された吉原にしてみれば、岡場所の存在自体が営業妨害であり、町奉行所に取り締まりを強く求める。

だが、寺社の門前や境内は寺社奉行の支配地であるため、町奉行所の役人は直接踏み込めず、取り締まりは徹底さを欠いた。賭博と同じく、あまりに遊女商売が多過ぎて取り締まりの手が回らなかったとも言える。

江戸四宿で遊女商売がなぜ横行したか。その根本的な理由は幕府が旅籠屋に飯盛女を置くのを認めたことにある。飯盛女の仕事は表向き宿泊客に御飯を盛ることだが、裏では遊女として働くのを幕府は黙認していた。

吉原のガイドブックが大人気に

吉原が力を入れたのは、イベントだけではなかった。メディア戦略も展開している。吉原に関する情報を冊子や浮世絵を通じて発信することで集客アップを目指したが、宣伝戦で蔦屋重三郎が果たした役割は実に大きかった。

重三郎は寛延三年(一七五〇)に吉原で生まれた。実父は丸山重助という人物である。ただし、職業などは分からない。七歳の時に蔦屋という商家の養子となり、蔦屋重三郎という名前が誕生する。蔦屋は吉原で茶屋を営んでいたようだ。

重三郎がメディア界に登場するのは、安永二年(一七七三)のことである。吉原大門口の五十間道で書店を開業し、鱗形屋という版元が発行する「吉原細見」の販売を開始した。鱗形屋は黄表紙や草双紙などの大衆書を取り扱う老舗の版元だった。

毎年刊行された吉原細見には、遊女屋や遊女の源氏名、その揚げ代、吉原で商売をする者の名前が各町ごとに書き込まれていた。遊客が知りたい情報が盛りだくさんのガイドブックとして、吉原で遊ぶのには欠かせない冊子であった。

通りを歩く着物を着た女性
写真=iStock.com/martin-dm
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