1989年の天安門事件のわずか3日後の6月7日、北京にある日本の外交官のアパートが中国人民解放軍によって銃撃されるという事件があった。日本は中国政府に抗議したが、中国の反論に遭った日本は“弱腰すぎる”対応に終始した。北海道大学大学院の城山英巳教授の著書『天安門ファイル 極秘記録から読み解く日本外交の「失敗」』(中央公論新社)より、一部を紹介しよう――。
天安門事件の3日後に北京の外交官アパートが銃撃された
防衛駐在官(武官)の笠原直樹はその時、北京のメーンストリート・長安街に面した外交官アパート「斉家園外交公寓」の自宅にいた。
「お父さん、解放軍が通るよ」。子供が呼んだ。
笠原が窓際に出てみると、兵士を満載したトラックの縦隊がゆっくり東へ向かっている。時々パン、パンと威嚇射撃をしている。笠原は空砲のようだと感じた。
「部隊交代で帰って行くんだな。よしビデオでもとるか」
笠原は、8日に避難のため一時帰国する妻に、撮影したビデオや写真を持たせて、陸上幕僚監部に届けるよう頼んでいる。
天安門広場から長安街沿いに東に向かって永遠に続くような軍用トラック100両以上の長い列だ。トラックに乗った兵士が、建物に向かって無差別に乱射した。
ビデオを撮っていると電話がかかってきた。政治部のチャイナスクール外交官、佐藤重和からだった。
「武官。今、建国公寓(建国門外外交公寓)が撃たれましたよ」
「空砲でしょ」
「空砲なんかじゃないですよ。実弾です」。ガチャンと電話を切られた。
「おかしいな。なぜ実弾を。それも外交官アパートに撃ったんだろう」
笠原は急いで大使館に向かった。大使館は大騒ぎで、別の外交官アパート・建国門外外交公寓に住んでいて自宅を撃たれた館員が興奮した様子で説明している。幸いにも誰もケガ人はいなかった。
「しかし許せない行為である」