日本政府は銃撃事件について専門家チームを送らなかった
警察庁から日本大使館に出向した南隆は、法務省出身の検事と一緒に、銃弾被害を受けた部屋を一軒ずつ訪れ、実況見分して写真付きの調書を作成した。南はその調書を基に中国側担当者と一軒一軒を回ったが、中国側は結局、サインを拒んだ(南インタビュー)。
外交部との交渉は、畠中が中心に行い中国側は弁償に応じた。露口の場合、銃弾で使い物にならなくなったクーラーは、外交官用免税店で売っている新品に取り替えられ、漆喰で使い物にならなくなった絨毯も交換してもらい、着られなくなった衣服については見合う金額を渡された。
南は「(外交公寓への乱射事件後)米政府は専門家チームを派遣して、どこから撃たれ、どういう被害状況だったか綿密な調査を行い、政府報告書を作成したと聞いている。しかし日本政府は専門家チームを送らなかった。(大使館は)『官』として指示するどころか、逆にそういう(調査の)動きを妨害しようとした。人が死ぬようなことがあっても何も変わっていない。国民の生命を守るという国家として最低限度の責務についての意識がない。こういうことはきちっと対応しないとなめられてしまう」と回顧した。
アメリカ大使館にはなぜか中国側から警告があった
北京の米大使館は、学生たちの民主化運動の「黒幕」と共産党から敵視された反体制天文物理学者・方励之を大使館に匿ったため中国政府と対立を強めていたが、日本とは違った展開を見せていた。
6月7日午前の戒厳軍による無差別乱射は、「攻撃に対する反撃」という突発的な事件では決してなかった。
前日の6日深夜、米陸軍武官ラリー・ウォーツェル少佐は、「中国人民解放軍の青年将校」と名乗る者から電話を受けた。「明日午前10時から午後2時のあいだ、部屋にいないようにしてください。特にアパートの2階以上には決して上がらないように」。ウォーツェルは明日、外交官アパート周辺で何かが起こることになっており、青年将校は上官から命じられて自分に電話してきたのではないかと考えた。そして大使のリリーは、大使館にできるだけ多くの館員と家族を招集して、万一の事態を回避しようとした(リリー『チャイナハンズ』)。
当時の日本大使館員に取材したが、日本大使館にはこうした警告の電話はなかった。とすれば、中国軍内部には当時、西側の外交官や報道機関を断固威嚇すべきだという強硬論とともに、米外交官が死亡すれば、危機的状況の米中関係が決定的に破綻してしまうという危惧もあったということになる。さらに米大使館は、「必ず何か起きるだろう」と判断するに足る警告電話を中国側から受けたならば、日本など同盟国になぜ情報を共有しなかったのかという疑問も同時に湧く。
反目し合っているように見える米中両国がしっかりと裏で手を組む現実があった。
(敬称略、肩書は当時)