「未来に本当の人生がある」と思い込まされている
若い人であれば、今の人生をきたるべき本番の日のためのリハーサルだと考える人はいるでしょう。そのような人は、子どもの頃から、「将来成功するためには、今はしたいことがあっても我慢して勉強しなさい。今、頑張っておけば後で楽ができるから」というようなことを大人からいわれ、未来に本当の人生があると思い込まされてきたのです。
自分でもそう信じて疑わず、成功者として生きられると信じて、今の喜びを犠牲にしてまで一心不乱に勉強しても、その努力が報われるとは限りません。行きたいと思っていた大学に入れなかったり、大学に入ったのにコロナ禍で講義を満足に受けられなかったりというような思いがけない出来事に遭遇し、輝かしい本番の人生などどこにもなかったと気づくことがあります。
たとえ首尾よく希望する大学に入れたとしても、受験勉強の苦労は、その後の人生で経験する苦労と比べれば、大したものではありません。
「終活」に励む人は今を生きる喜びを犠牲にしている
この先何があろうと、今が本番です。先の人生のために今を楽しまない生き方を、私は好ましいとは思いません。「終活」をする人も同様です。今楽しめるのに、最期のために今生きる喜びを犠牲にしているように私には思えるのです。
誰もが死を免れることはできませんが、いつどこでどんなふうに死ぬのかは自分で決めることはできません。家族と暮らしていても、一人で死ぬことになるかもしれませんし、看取られて死ねるとしても、死ぬのは自分であって、他の人が一緒に死んでくれるわけではありません。
未来は「未だ来ていない」というより、「ない」のです。未来があるという保証はどこにもありません。少なくとも、自分が思い描いている人生になるという保証はまったくありません。
そうであれば、徒にこれから起こることを恐れるよりも、今できることに専念する。これが「今を生きる」ということの意味です。