この対比は、音楽を記録するデジタル媒体(CD)と、アナログ媒体(レコード)の比較で考えてみるとわかりやすい。

まず、CDなどのデジタル媒体の場合、最高の音を響かせるための条件とは、「いかに情報を媒体に詰め込むか」になる。

たとえば筆者は、まったく同じ曲を、普通のCDとDVDオーディオ(CDの約8倍の記憶容量がある)で聴き比べた事があるが、全く違った演奏に聞こえるほど差があった。詰め込んだ情報量が、響きの決め手になるのだ。

ところがアナログレコードでは、「いかに、余分なノイズを入れないか」が勝負になる。レコード盤に刻まれた溝には、録音されたすべての情報が詰め込まれているので、後はモーターの振動、ゴミなどの雑音の元凶をいかに混入させないかがポイントなのだ。

この比喩でいえば、人間をCDのように考えたのが儒教思想だった。学問をデジタルに積み上げていけば、世の中で活躍できる人間ができると踏んだのだ。

一方の『老子』は、デジタル競争は真似によって際限がなくエスカレーションを起こすだけなので、愚かしいと見なしていた。もともと人間はレコードのように完全なので、その完全さをきちんと発揮さえできれば良いのではないか――この典型が、熟練の職人の姿だ。

どんなジャンルであれ、神業のような職人の仕事は、洗練されて無駄な動きが一切ない。逆に、ごく自然に動いているようにしか見えないため、傍からはその凄さがわからなかったりもする。

これを『老子』では「無為――作為や雑念がない」という。まったく力みがなく、体が自然に動いてしまう状態だ。同じことを素人がやろうとしても、雑念ばかりでギクシャクしてしまう。

こうしたアナログ的な強みの長所は、デジタルと違って容易に真似できない点だ。ビジネスでいえば熟練の勘で難しい判断を捌くリーダーのような存在に近い。

人であれば誰しも、こうした能力を身につけられる、これが『老子』の人間観だった。