怒りを放っておくのは非常に危険

「怒りは本能なんだから、仕方がないんだ」と現状に甘えるのはたいへん危険な道です。それは「まあいいんじゃないか」と努力しないで、怠けることなのです。

そういう状態を、仏教用語で「放逸ほういつ」といいます。

「怒りは感情だから、本能だから仕方がない」と怠けて放っておくと、どうなるでしょう?

白人の怒りと積極的な男の拳と脅す
写真=iStock.com/Andranik Hakobyan
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それは明々白々です。今の世の中がまさにそんな状態なので、調べるまでもありません。現代の人類社会では、みんなが怠けて、いろいろなことを放置しているのです。

今、我々の命は危険にさらされています。食べているものが安全か、吸っている空気が汚染されていないか、飲んでいる水は本当に飲んでいいものなのか、自信がありますか? わからないでしょう。

今は、陽の光に当たることさえ怖い時代なのです。そう考えると、この先も生きていられるかと不安で仕方がありません。

破壊的な行動をする人もたくさんいますから、いつどこで戦争が始まるかわかりません。今この瞬間も、人間はどんどん恐ろしい大量破壊兵器を研究開発しています。地球の財産の大半は、人を殺す武器の開発に使われているのですよ。

そういうものをちょっとでも使ったら、人類は終わりです。使おうとしなくても人間がつくる機械ですから、完璧に安全ということはあり得ません。だからそのような大量破壊兵器が存在するというだけで、人類は大きな危機にさらされているのです。

今、ほとんどの武器はリモートコントロールシステムで遠隔操作しています。

こちらから電波信号を送るだけで、爆弾やミサイルが自分で起動して出ていってしまいます。世の中は電波だらけですから、もしそういう機械が電波を受けて混乱したり、自動的に起動したりしてしまったら、どうなるでしょう?

「ハイテク機器が誤作動するなんて、絶対あり得ない」「日本の原発は、世界一安全水準が高いから安全だ」。皆さんご存知のように、そういう言説は真っ赤な嘘です。人間のすることなんて、しょせん穴だらけです。それを認めない人のすることは、なおのこと危ない。信じたらひどい目にあいます。このように、我々はなんの危機感もなく破壊的な道具をつくったり破壊的な思考を持ったりするのです。ですから我々は「怒りは感情だから仕方がない」と放っておいてはいけないのです。

「正しい怒り」は存在しない

怒りを放っておくと、我々一人ひとりの命にかかわります。怒りをコントロールしなければ、誰一人として幸福になれないのです。だから我々は、あまり自分に甘えないで、怒りが生まれないように性格を調整するべきです。

ここで間違えないでほしいのですが、怒りが生まれないようにすることは、「怒りと戦う」こととは違います。怒りと戦おうとする感情もまた「怒り」なので、良くないのです。そうではなくて「なんとかして、怒らないような人格を育てよう」ということなのです。

正義の味方になるためには悪人を倒さなくてはなりませんね。では、人を倒したり殺したりするために必要なのは何かというと、「怒り」なのです。

ということは「正義の味方」という仮面の下で、我々は「怒り」を正当化していることになります。正義の味方は「悪人を倒してやろう」などと、わざわざ敵を探して歩きまわるのですから、よからぬ感情でいっぱいというわけです。

正義の味方までいかなくても、そういう「何かと戦おう」という感情が強い人は、すごくストレスが溜まっていて、いろいろな問題を起こします。

本来楽しいはずの勉強でも、「テストでいい点数を取りたい」「受験戦争に勝ちたい」「ライバルに差をつけたい」という気持ちになってしまったら、そこにあるのは怒りです。どうして戦うのでしょう? 戦うからうまくいかなくて、苦しくなってしまうのに。

「悪に向かって闘おう」「正義の味方になろう」というのは仏教の考え方ではありません。「正しい怒り」など仏教では成り立ちません。どんな怒りでも、正当化することはできません。我々はよく「怒るのは当たり前だ」などと言いますが、まったく当たり前ではないのです。