「共住を前提としない」家族の概念が変わってきている

そもそも「家族」とはなんでしょうか?

アメリカの社会学者タルコット・パーソンズは、「家族は子どもの養育とメンバーの精神的安定という2つを本質的機能とする親族集団であり、必ずしも共住を前提としない」と言っています。さしずめ、現代においては、子を持たない夫婦もいるし、必ずしも「子どもの養育」が必須条件とはならないし、血縁関係に限定されるものでもないかもしれません。

となると、「家族とは、構成するメンバーの経済的生活の成立と精神的安定を機能とする契約に基づいた集団であり、必ずしも共住を前提としない」という定義もできます。

共住を前提としない……つまり、同居することだけが家族ではないのです。ここにこそ、家族を消滅させないひとつのヒントが隠されています。

最近では、コレクティブハウスのような機能を持つ住居に、年齢や家族形態がバラバラな住人が共同生活をするパターンも見られ、それを「血縁によらない新しい家族の形」とする向きもあります。が、それは、新しいというより、ある意味「所属するコミュニティ」への原点回帰と言えます。

江戸時代の裏長屋や農村地方の村社会もそうでしたが、寝食を共にする居場所をベースとして、その場所に集う人間を擬似家族としてコミュニティを形成するというのは、実はもっとも原始的なコミュニティスタイルです。

週末に自宅で朝食を楽しむ3人の中国人女性グループ
写真=iStock.com/Edwin Tan
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必要に応じて助け合う「接続するコミュニティ」

それ自体は否定しませんが、共住を前提とした縛りがあることがかえって、ストレスを生むこともあります。所属することで得られる安心というのは、それと引き換えに、空気を読んだり、不本意ながら同調したりするという我慢も伴います。所属とは、みんなと一緒なら安心だ、という共同幻想を信じることだからです。そしてその共同幻想が、同調しない者を敵視し、残酷に排除してしまう行動に向かうことも歴史が証明しています。

今後大切になるのは、血縁や共住などのひとつの枠組みだけに縛られず、「所属するだけではないもうひとつの安心の形」を作り上げることではないでしょうか。いつも一緒に同じメンバーで同じ場所にいるのではなく、必要に応じて、集まったり助け合ったりする関係性。場所としての家が家族なのではなく、何かをするために考え方や価値観を同じくする者同士が巡り合えるネットワークも家族のカタチなのです。私は、それを「接続するコミュニティ」と表現しています。