「食べられない子が行くところ」に行かせたい親はいない

高齢者の健康づくりなら、介護予防体操など高齢者だけを集めたほうが効果的だろうと言われるが、これも実態はそうではない。

たとえば、要介護に陥りやすい高齢者を対象に実施する介護予防事業よりも、すべての高齢者を対象に開かれた場(「通いの場」)のほうが、実際にはハイリスク者が2倍以上参加していたというエビデンスがある(※3)

「大変な人や課題のある人を集めるように見える場」は、そこに参加すること=支援されることというスティグマ(恥の意識)を生み出し、「自分はそこまでではない」という抵抗感を人々に抱かせやすい。

逆に、対象者を選別せず、地域の高齢者全員、地域住民全体に開かれていると、地域のお祭りに参加するようなもので、そこへの参加に心理的抵抗が伴わない。結果的により多くの対象者に届けたい支援を届けることができる。

これを、リスクある者に対象を絞り込んだ「ハイリスクアプローチ」に対して「ポピュレーションアプローチ」と呼ぶ。

こども食堂も同じだ。「食べられない子が行くところ」と言われていたら、自分の子どもに「行ってみたら?」という親はいないだろう。親だけではない。ほとんどの地域住民は自分が行きたいとも思わないだろう。

「こども食堂は食べられない子が行くところ」という誤解が解ければ、今よりもさらに多くの地域でこども食堂が広がるだろう。そこで、例えば、子どもたちが高齢者との交流が生まれれば、元気な高齢者が増える。筆者が、こども食堂の実態を正しく理解してもらいたいと願うゆえんだ。

※3:加藤清人他「ポピュレーションアプローチによる認知症予防のための社会参加支援の地域介入研究」報告書。(2022年3月30日孤独孤立対策官民協働プラットフォーム主催「現場課題ワークショップ」における近藤克則氏(千葉大学予防医学センター・国立長寿医療研究センター・一般社団法人日本老年学的評価研究機構(JAGES))資料より)

コロナ禍が破壊した地域コミュニティ

だから、「こども食堂」という名称を改めた方がよい、という声もある。「こども食堂」と言うから「こども専用の食堂」というイメージを抱かせるし、子どもの貧困対策のための場所というイメージもついてしまっているから、という理由だ。多世代による地域交流を行う場なのであれば、「地域食堂」「みんな食堂」といったような名称がいいのではないか、と。

他方、「子どものためと言うから、みんなが集まってくれる」と言う運営者も多い。「みんなのため」だと、一肌脱いで手伝ってやろうという気持ちになりにくいのだ、と。

名称の問題ではない、と思う。

そもそも多世代による地域交流は、町内会や寺社が中心に担ってきたものだ。誰が参加してもいい「公園のような場」は、町内会の親睦会や寺社のお祭り、地元商店街のイベント、学校主催の地域行事等々の形で、多くの人の日常の暮らしの中に織り込まれていた。

しかしそれは、「しがらみ」と分かち難く結びついており、運営者側の住民の負担感を伴うものでもあったため、少なからぬ人々に忌避され、徐々に衰退していった。そこに少子化・高齢化・人口減少といった人口動態の変化、また巨大ショッピングモールの進出や消費の個人化などの産業・消費構造の変化が加わって、衰退は加速した。

焦点が焦点を当て解除された廊下
写真=iStock.com/t_kimura
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人と人の距離が物理的にも精神的にも空いて、日本の多くの地域はスカスカ(「疎」)になっていった。コロナはそれに追い討ちをかけ、残った「密」をも撃破した。

そうして、地域から交流の場が消えていった。