「やるっきゃねえ」という覚悟

出身も年齢もバラバラ、ごった煮のようなクラスで仕切り屋を務める一方で、悪い癖がすぐに出てMITのオーケストラに入った。これがまたレベルが高い。入った途端にオハイオ州まで演奏旅行、そしてしばらくしたらあのカーネギーホールで演奏会である。先輩方の寄付が集まるから、演奏旅行も信じられないくらいに贅沢だった。音楽生活も充実していて毎週木曜日にはボストン交響楽団の演奏会があった。当時はシャルル・ミンシュが常任指揮者であったが、カナダでトロント交響楽団の音楽監督をしていた小沢征璽さんもよくボストンに来て指揮を執っていた。

それから女の子である。MITの男子学生だけではオーケストラは成り立たない。足りない楽器はボストン界隈の女子校から集めるのが慣わしになっていた。ウェルズレイ大学(米東部の名門女子大学群、セブンシスターズの1つ。米ヒラリー国務長官の出身校)やニューイングランド音楽院、ボストン大学の音楽部などから、ヴァイオリンやらオーボエやらフルートやら女の子を呼んでくるから、もう楽しい。これは熱が入った。

英語が苦手な留学生は引っ込み思案になってクラスに溶け込めず、落伍していく。よくある話だ。しかし、私の場合、通訳案内業で稼ぎまくっていたし、集団の仕切り方も学んだ。好きで音楽の修業も積んできた。日本で蓄積した経験が全部プラスに作用した瞬間である。もちろん、単身アメリカに乗り込んで「やるっきゃねえ」という覚悟もあった。積極的に発言してクラスをまとめて、授業でも前のほうに座って必ず質問した。

日本では「授業は適当に」がモットーだったが、MITの授業はマジメに受けた。卒業後10年くらいの間は、「授業に出ないと卒業できないぞ」と先生から怒られる夢を時々見たくらいだから、意識はしていなくてもどこかでプレッシャーを感じていたのだろう。

(小川 剛=インタビュー・構成)