1967(昭和42)年、大前青年は初めてアメリカの地を踏む。大学院レベルの研究者の数が日本の10倍という圧倒的なスケール感。「原子炉に手を突っ込めるくらいに」知悉している学友たち。だが、大前さんは臆するどころか、その日のうちにクラスを仕切ってしまった。

合格して気づいた。「金がない」

大前さんの母校、MITの創立は1861年。日本では文久元年、桜田門外の変の次の年である。写真はMITの「正門」とも言えるロジャービル正面。(写真提供:日本MIT会)

マサチューセッツ工科大学(MIT)の入試は大学や大学院の成績などを送付しての書類選考だった。

東工大では学科で4人しか枠がないドクターコースに3年目で入ったぐらいだから、成績的には問題ない。併せて英語で書いた科学雑誌に掲載された論文も書類に添付した。

私は原子炉材料を研究していたから、修士論文もその領域で書いた。将来的に高速炉の燃料被覆管や反射板の材料として期待されていたベリリウム(Be 原子番号4番)の物性に関する論文で、自分で開発した純度の高い塩化ベリリウムの生成法なども記してある。

東工大はハイカラな学校で修士論文は英語でもOKだった。私は英語で論文を書き、簡潔にまとめたものを『ジャーナル・オブ・エレクトロ・ケミストリー』という雑誌に投稿していたのである。

科学雑誌に掲載された英語の論文を添付する作戦は当った。当時、MITにデイヴィッド・ローズという核融合の先生がいた。核融合に使う材料は物性が非常に難しく、デイビット先生も頭を悩ましていて、そのタイミングで私の論文が目に止まったのだ。

「物性がよくわかっている」と評価されて、入学を認められた。しかし合格通知をもらって今さらながら気付いた。金がない。

アメリカの大学の授業料は総じて日本より高いが、なかでもMITは高い(2011年現在、年間2万3000ドル)。今どきの留学だって生活費込みで年間500~600万円はかかるだろう。ましてや円の価値が今の4分の1以下、1ドル=360円の時代である。

途方もない金額だった。ツアーガイドの仕事でも簡単には稼ぎ出せないし、親の援助も当てにできない。奨学金でも貰えないものか。半分泣き落としのつもりで、「授業料が払えない」と大学当局に手紙を書いた。すると件のローズ先生がスポンサーになってくれるという旨の返事がきた。