意味不明の臨場、恐怖あっての臨場感
室内にはプロジェクションマッピングで外の風景が映し出される。眺めているうちに「シートベルト着用のサインが消えました」とのアナウンスがあり、私は座席を後ろに倒してリラックスした。そしてHMDが配布されて装着。ゲームの紹介のような画像が流れた後、ワイキキの街並みが現われた。
なんで?
と私は思った。かき氷の店の前のようなのだが、なぜここなのか、よくわからない。臨場感以前に臨場する理由が不明なのだ。そこから移動していくのだが、途中で珍しいものを発見するということもなく、ただ進む。微妙な揺れと視線が高いことが気になって下を見ると、撮影者の頭が見えた。
人の頭の上に乗っているという状況を知り、私はたちまちこわくなった。そして恐怖とともに臨場感を覚えた。つまり臨場感とは恐怖のことだったのだ。それに夫婦ふたりで旅行しているはずなのに、妻の姿がない。すぐ隣に座っていたはずなのに連れ去られたような気がして、私はすぐにでもHMDを外したい衝動に駆られた。
「あれはエコノミークラス?」
池袋からの帰り道、妻はそう指摘した。座席は一昔前のファーストクラスであって、今となっては通常のビジネスクラスや新幹線のグランクラスのほうが座り心地もよい。彼女がCAに「これはコナコーヒーですか?」とたずねても「粉?」などとファーストクラスらしからぬ返答をされていた。
立ち止まれる『世界ふれあい街歩き』のほうがリアル
彼女によれば、VRより2Dの『世界ふれあい街歩き』のほうがリアルだという。
「だって立ち止まれないでしょ」
――立ち止まる?
「テレビのほうは録画で観てるから、自由に停止もできるし、巻き戻せる。つまり立ち止まれるわけ。ところがあのVRはそれができない」
旅の醍醐味は「歩く」というより随所で「立ち止まる」ことなのだ。
「それに旅行の時に、あんな重くてうざいものを着ける? 化粧も崩れるし」
リアルを感じるためのHMDだが、HMDをかけること自体がリアルを阻害する。テレビの視聴は顔前の風通しがよく、気楽な気分を味わえるのだ。不満の残るVR旅行。しかし旅行に不満はつきもので、その点だけは旅行という現実に通じていた。