自分の代わりにロボットが小笠原諸島を旅行する
「実はVRはまだキラーアプリが見つかっていないんです」
そう打ち明けたのはテレイグジスタンス社の彦坂雄一郎さんだ。キラーアプリとは「決定的な需要を創出するアプリケーション」のこと。VRの技術は応用先をどうするのかという大きな課題を抱えているそうなのである。
同社では舘先生主導のもと、テレイグジスタンス技術の開発を進めている。ロボットを使い、遠隔地へ「存在」を移転させる。究極のVRを実現しようとしているのだ。
「こちらで腕を上げると向こうのロボットも腕を上げる。そして自分の手を見るとロボットの手なんです。初めはびっくりするんですが、5分10分もすれば慣れます。やがて自分はここじゃなくてそこに居るんじゃないかと思っちゃうんです」
人の自意識は視覚、聴覚、触覚に加え、運動感覚の一致によって生まれるらしい。自分とまったく同じ動きをするものを見ていると、それを自分だと感じるのだそうだ。
ロボットにのりうつる。あるいは憑依する感覚なのだろうか。ともあれ私は実際にテレイグジスタンスを体験させていただくことにした。
小笠原諸島への船が発着する竹芝客船ターミナルで開催されたイベント。待合室に座ったまま、小笠原諸島に「遠隔旅行」をする。現地に設置されたロボットとインターネットでつなぎ、「あたかも自分が小笠原諸島に居るかのような体験ができる」というのである。
「リアリティがないですね」と言うのは道徳的でない
ソファに座り、HMDとヘッドフォン、専用の黒い手袋を装着する。準備運動のように体を動かして、コンピュータを調整すると、いきなり小笠原の海が目の前に広がった。
「こんにちはー髙橋さん」
現地に居る女性が私に声をかけた。彼女はロボットに声をかけているのだが、ロボットと私はつながれているので、私の耳元に聞こえる。「こんにちは」と答えると、彼女は微笑みながらうなずき、「見てください、あの船」と海岸を指差した。私が「あれですか」と腕を上げると、目の前にロボットの腕が現われた。
俺の腕? と一瞬思ったのだが、いかんせん動きが遅れていた。インターネット回線の遅延が原因らしく、ロボットと私は動きがズレる。触覚も転送されるのだが、ロボットが海亀の甲羅を触っても、遅れてピリピリという刺激があり、手袋の不具合か何かと思ってしまう。
道徳的現実とはこのことか。
はたと私は気がついた。スタッフたちがみんな懸命に働いているのに、私が「ズレますね」「リアリティがないですね」などと言うのは道徳的ではない。技術としては開発途上であることは関係者たちが一番よくわかっていることで、傍観者の私などがいちいち揚げ足を取るべきではない。ズレは私の脳内で調整すればよいことで、慣れれば気にならなくなるはず。そう自分に言い聞かせて私は「存在」を小笠原諸島に飛ばそうとした。実際私はじっとりと汗をかいた。何の汗だかよくわからないが、小笠原の日射しのせいだと思うことにしたのである。