「お母様を返してください」
「妻は、要介護5の認定を受けましたが、その介護保険点数を使い果たし、私は『重度訪問介護』という障害者支援法に基づいた、ヘルパーを雇う公的な支援を地方自治体から獲得する交渉をしました。しかしそれには、大変な時間と準備が必要でした」
中野さんは、妻の在宅介護が始まってすぐに、区役所に「重度訪問介護」を申請したが、制度を利用できるまで、調査や判定など、気が遠くなるほどの道のりを乗り越えねばならなかった。
かといって妻の病気の進行は、十分な重度訪問介護時間の支給が決まるまで待ってくれない。そのため、支給が決定するまでは、自費でヘルパーを雇えるだけ雇い、雇えない時間帯は、自分自身で介護をするしかなかった。
数カ月粘り、やっとある程度の「重度訪問介護」時間の支給が決定したが、今度は妻のような重度の介護者をケアできるヘルパーが見つからない。
「『重度訪問介護』の利用が決定しても、自費負担分がゼロになったわけではありませんが、2016年11月から約6年をかけて、今では24時間365日、妻を介護してもらえるくらいの支援を得ることができました。『重度訪問介護』を獲得するには資料作成のスキルが必要なので、仕事の経験や知識が役立ったと思います」
2017年に入ると、夜勤のできるヘルパーも見つかったため、1カ月に2回は仙台へ行けるようになる。89歳になった母親は、心不全と肺炎を頻繁に起こし、短期入院を繰り返すようになっていた。
同じ年の9月。3回目の入院となったとき、母親の主治医から、「大切な話があるので至急、病院に来てほしい」と中野さんに電話が入った。
急いで向かうと、母親は心不全、肺炎、盲腸炎から派生した敗血症、胃がんステージ4だという。すでに年齢は90歳。「大きな手術は避けるべきだと考えています。今後の治療について、お母さんの意思確認をしてほしい」とのことだった。
その足で中野さんは、母親に率直に訊ねた。すると、「もうこれ以上、私の体に傷をつけたり、管をつないだりすることは許しません!」とすごい剣幕で叱られた。
母親の意思は分かった。当時入院していた病院は救急病院だったため、終末期の患者を受け入れてくれる病院に転院しなくてはならない。
中野さんは、すぐさま病院のソーシャルワーカーに相談して転院先を探し、受け入れ先が見つかったタイミングで再び仙台に帰り、転院先の病院を訪問。正式に転院が決まった。
その後、中野さんはこれまでの経緯と転院のことを説明するために、入院前までお世話になっていたケアハウスの寮母長を訪ねた。すると寮母長は、「お母さまを返してください」と真剣な面持ちで言った。
「私の印象ですが、仙台の方は、あまりはっきりとした物言いをしない方が多いと思います。ですが、静かでしたが、もの凄い迫力で迫られ、私は圧倒されました。その時、ハッと気づかされたのです。『そうか。もし今日決めてきた病院に転院して、母が目を覚ましたら、知らない部屋の壁や天井が目に入り、知らない看護師や医師がいるのだ。1人ぼっちにされたような、寂しい気持ちになるだろうな』と……」
寮母長のおかげで目が覚めた中野さんは、転院先の病院に説明と謝罪に。そして入院中の救急病院には、ケアハウスに戻ることを説明した。
まだ母親が入退院を繰り返す前、「身体の調子が悪くなってもここにいられるのかね? 他に移れとか言われるのかね? 聞いてきておくれ」と母親が言い出したことがあった。
寮母長に確認したところ、「ここは特定施設の認可を受けているので、介護度が進んでも、寝たきりになっても、他の施設に移る必要はありませんよ」と穏やかに言われた。それを聞いた母親は、「そうか、よかった」と心底安堵した表情を浮かべていたことを、中野さんは思い出したのだった(以下、後編へ続く)。