ウクライナはまた、第2次世界大戦では、ドイツとの激しい戦争の舞台となり、多数の犠牲を出した。人口の6分の1にあたる530万人が戦死したといわれている(同上)。
第2次世界大戦のヨーロッパ戦線の悲劇を描いた映画の1つに、ソフィア・ローレン、マルチェロ・マストロヤンニ主演の『ひまわり』がある。戦争の最中に行方不明になったイタリア人の夫を探し回る映画で、画面いっぱいに広がるひまわりが忘れられない映画だった。あの場面はウクライナで撮られたもので、ひまわりの下には、数え切れない犠牲者がいたのだろう。
ロシア(ソ連)は攻め込まれたときに、国土の縦深性を利用して、敵を奥深く誘い込み、やがて反撃に転じることを得意とするが、その中で犠牲になった人もまた無数だった。ウクライナはしばしばその最前線としての役割を担わされたのである。
ウクライナのアイデンティティは、こうした困難な歴史の中から生まれている。
ピアニストのホロヴィッツや、ヴァイオリニストのミルシュタインのように亡命した人はもちろん大変だったろうし、ピアニストのリヒテルのように国内にとどまった人も、厳しい目にあっていた。作曲家のプロコフィエフは亡命し、そして帰国した人である。
独立時から続くロシアとの緊張関係
さて、現在のウクライナは、伝統的な領土をすべて領土としている。つまりこれまでウクライナはポーランドやリトアニア、ロシアの支配下にあって、彼らが領土と考えるところをおさめているのは、歴史上稀に見る事態である。
しかし、ソ連時代に進んだロシア化の影響は大きく、東部にはとくにロシア人や親ロシア派が多い。人口の8割はウクライナ人、2割がロシア人であるが、長くロシアに依存する経済だったから、ロシアの勢力は2割よりもかなり大きいと思われる。実際、これまでの大統領選挙は、いつも親露派対反露(親西欧)派が拮抗することになっている。
ウクライナの独立は1991年のことであった。これはいくつかの偶然によるところもあったが、ウクライナの独立はソ連にとって致命的だった。以後、ウクライナとロシアとの関係は微妙だったが、2004年には大統領選挙の混乱からオレンジ革命が起こり、親欧米のユシチェンコが大統領になった。
ロシアはこれを認めず、強硬策に転じた。2005年には天然ガス価格の大幅値上げを要求した。私はちょうど国連大使だったのだが、2006年4月、温厚なデニソフ大使にかわって、気性の激しいチュルキン大使が任命され(2017年、現職のまま亡くなった)、厳しい締め付けが続いた。
ロシアがNATOの東方拡大に過敏になるワケ
それは私には意外ではなかった。かつて1998年ころ、「ソ連封じ込め」の冷戦政策で知られるジョージ・ケナンは、NATO(北大西洋条約機構)の東方拡大に反対だった。ロシアは常に周囲から圧迫されていると感じ、そのことに強く反発する国である。不用意な拡大はロシアの強い反発を招いて危険だという予測だった。