「見たいところしか見ない」からネトウヨが増える
【宮台】思わず動いて、困っている相手を助ける。それで相手が喜んでくれ、そのことに自分も喜びを感じる。同じく、自分が困っているときに相手が助けてくれる。それで自分が喜びを感じ、それを相手も喜んでくれる。そういう喜びは、相対的な快楽というより、絶対的な享楽です。至上の悦びです。
でも、ネットコミュニティの人間関係ではその悦びが得られません。だからネットコミュニティが拡大すれば、人間関係の悦びを知らない人が増えます。
すると、何が起こるでしょう。人は他者との関係を、プライベートを含めてコストパフォーマンスだけで測るようになります。だから、人間関係において生じる面倒くさいことやわずらわしいことを回避するようになり、対人能力の退行や未発達も進みます。
その結果、人間関係から生じるノイズをますます怖がるようになり、ネットコミュニティのつまみ食い的な人間関係にますます依存する、という悪循環に陥るわけです。
このことは、実はネトウヨやオルトライトの増加という現象とも関連します。ネットの特徴は「見たいものだけを見る」ことです。外国人や移民を排斥している人は、自分と同じ主張を持つ人をネットで簡単に見つけられます。
もしその相手が隣にいれば、その佇まいから、ただの「あさましいクズ」であることがわかるでしょうが、ネットでは「見たいところしか見ない」から、クズたちが、ヘイトだけをフックに軽々とつながれてしまうのです。
「感情が壊れた人間」が次々と生み出されている
改めて、生活世界とシステム世界の人間関係を対比します。生活世界の人間関係は、価値合理的・コミュニケーション的で、コミュニケーション自体に価値を認めるコミュニカティブなものがメインです。
他方、システム世界の人間関係は、目的合理的・道具的で、人間関係は何かの手段です。つき合う相手は、道具として役立てば誰でもいい。性欲を満たすとか、さびしさをまぎらわすとか、暇をつぶすといった目的を果たすために、人間関係を使います。
実際、ネットコミュニティにおける人間関係の空洞化は、「生活世界が縮小したがゆえに、システム世界がプライベート領域をも侵食しつつある事実」を表します。こうした変化は1990年代後半から始まっていて、この過程を「3段階めの郊外化(ネット化)」と呼んでいるのです。
こうしたシステム世界の全域化は、秋葉原事件の加藤智大や『黒子のバスケ』事件のWのような感情が壊れた人間を生み出すだけでなく、ふつうの人たちの感情も劣化させます。というのも、システム世界の全域化が進むと、人と一緒にいるための感情が不要になるからです。そういう感情を育て上げられることもないし、使うこともなくなります。
その状況がさらに進行すると、人々はそれぞれのライフスタイルによって分断され、自分と異なる価値観を持つ人たちのことを理解しなくなります。すると、何がノーマルで何がおかしいのかという感情の標準もあいまいになり、人間のまともなあり方についての合意ができにくくなります。それが3段階めの郊外化がもたらしている現実です。