頼朝は使者を東国の武士たちに送り、加勢を要請した。中には、それを蹴った上に罵詈雑言を浴びせてくる武士もいたという。平家の勢いがまだまだ強い当時の状況を踏まえれば、それらの武士の心情も理解できる。
頼朝は、わずかではあるが味方してくれた武士に対して「そなただけが頼りだ」と感謝の言葉を述べた。ただ、戦に関する重要な密事については、時政にしか話さなかったという。
初戦に勝利も石橋山の戦いで大敗し…
ついに頼朝は挙兵する。下準備を合わせて、時政が挙兵の「総括者」の役割を与えられていたと思われる。
彼は、娘婿になるはずだった山木兼隆とその後見役の堤信遠を攻撃し(1180年8月)、彼らを討つことになる(堤は、別働隊に攻撃させている)。挙兵初期の戦を勝利に導いたことだけでも、称賛に値しよう。
ただ、平家方の大庭景親との石橋山の戦い(1180年9月14日)では、頼朝・時政軍は大敗してしまう。
頼朝と別れ、箱根山中に身を潜めた時政は、箱根権現の僧侶・永実と会う。頼朝の身を案じる永実は、時政に頼朝の居場所を問う。
ところが、時政は「景親の囲みを逃れることができなかった」と、頼朝は既にこの世にないことをにおわす(実際には、頼朝は死んでいない)。信用されていないと感じた永実は「頼朝様が死んだとなれば、あなたもこうして生きてはいないはずだ」と時政を問い詰める。すると、時政は大笑いし、永実を頼朝がいる場所まで連れていったという。
『吾妻鏡』に載るこの逸話は、時政の頼朝との密接な関係と挙兵にかける強い思いをうかがうことができよう。それとともに、時政の用心深さというものも浮き彫りにしている。慎重に物事を進めていくタイプの人間だったのだろう。
石橋山の敗戦後、時政は甲斐国に派遣されて、同地の甲斐源氏を味方に付けるべく奔走する。それが成功したということは、時政は交渉力にも長けていた。
慎重な性格の時政も、婿の不貞に激怒
慎重で抜け目のない行動をしてきた時政だが、突発的に感情に任せて動くこともあった。
養和2年(1182)、頼朝と亀の前との不倫に怒った政子が、牧宗親(時政の後妻で牧の方の父)に命じて、亀の前を襲撃した。
頼朝は牧宗親を詰問した挙げ句に、髻を切るという侮辱に及ぶ。これに怒ったのが、時政だ。彼は鎌倉を出て伊豆に帰ってしまったのだ。
時政がいつ鎌倉に戻ってきたのか、どのように頼朝と和解したのかは不明であるが、慎重に事を運ぶと思われた時政にしては「短慮」といえるだろう。この事件がきっかけで、時政は頼朝に重要な役職に付けてもらえず、干されたという見解もある。
頼朝が正治元年(1199)に亡くなるまでの時政の重要な仕事としては、京都守護の職務くらいであろうか。時政は、都の強盗たちを検非違使庁(都の治安維持を担う役所)に引き渡さず処刑するなど、大胆な行動に及んでいる。そうした「荒療治」も関係したのか、時政はわずか数カ月で、京都守護を解任される。