ケ・セラ・セラの信条を貫く

男にとっては「カサノヴァから手ほどきを受けた」「カサノヴァと共にちょっとした冒険をした」というのは自慢でした。女性にとってもカサノヴァに口説かれるのは不名誉ではありませんでした。何しろ人を見る目に定評のある男です。

そして意外にもカサノヴァは、一方的に援助を受けただけでなく、かつて関係した女性や出来た子供に対して、気まぐれな形ながら援助を与えたりもしました。それなりに情の深いところもあったのでしょう。

ただし子供に会いたいとか、将来を心配する風情は見られず、人はしょせん孤独なもの、自分は自分でどうにかするほかなくケ・セラ・セラの信条を貫きました。

彼はその時々を優雅に楽しく過ごすことを何より重んじました。行く先々で色事をしているので、そこここに彼の子供がいて、ある時は危なく自分の娘と知らずに関係しそうになったなどという話も『回想録』に出てきます。

こうしたカサノヴァの生き方は、軽薄で行き当たりばったりのように見えますが、それは私たちが合理的で効率主義的な考え方を身に付けた近代以降の人間だからなのかもしれません。

ロココ時代の貴族や知識人のありようを見ていると、効率的であるよりも幸福であることを優先する思考が見て取れます。現代的視点からは愚行に見えても、たしかに彼らは楽しそうです。

逆にカサノヴァは「あなたたちは何が楽しくてそのように分刻みの生活をしているのか」と問うかもしれません。私には「そうでないと生きていけないから」としか答えられません。不幸とは思いませんが、幸福かと問われたら「あなたほどでは」と言うよりほかにありません。

キッチンで歌って楽しむシニアカップル
写真=iStock.com/fizkes
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バロック的でロココ調な生き方

カサノヴァが生きていた頃、既に世は啓蒙主義時代に入っており、不合理で享楽的な社会から、理性的で合理的な思考を重んずる社会へと転換しつつありました。

カサノヴァの生き様は、ヴォルテールに代表される啓蒙主義に対する、果敢な抵抗だったといえるかもしれません。彼の饒舌は豊穣なレトリックに彩られた甘美な虚言であり、行動もまた奸計と誠実が奇妙に入り交じっていながら、どこか憎めないところがありました。

カサノヴァはフォンテーヌブローの宮殿でルイ一五世の公妾ポンパドゥール夫人とも知り合っています。ルイ一五世も多くの愛人を持った多淫の人でした。国王なだけに彼の浪費はカサノヴァの比ではなく、「自分が死んだ後には大洪水が来るだろう」と述べています。

日本語なら「後は野となれ山となれ」に相当する慣用表現で、自分の放蕩が国庫を痛めているとの自覚はあったのでしょう。それでも身を慎まないところがバロック的でありロココ調です。

ルイ一五世はヴォルテールの啓蒙主義思想を理解し高く評価していましたが、自身の生活に取り入れはしなかったのです。一七八九年のフランス革命は、バロックやロココといった不合理な祝祭的浪費の王権に、啓蒙主義の洗礼を受けた合理的市民層が挑んだ戦いといってもいいかもしれません。

とはいえ、そんなカサノヴァの魔力にも40歳頃からはかげりが見え始めます。若さを失い、まだまだ色男とはいえ、もはやすべての女が彼になびくというわけではない。『カザノヴァ回想録』は49歳で終わっていますが、後半はさすがに精彩を欠き、誘惑に失敗することも目立ちます。それどころか一時の快楽のために女に金を払うことすらありました。

さらに放蕩者を罰する病といわれた梅毒をもらってしまい、苦しむようにもなりました。それでも薬学の知識がある彼のこと、転んでもただでは起きません。

さまざまな治療法を編み出しては自分で試し、梅毒治療の専門家として、同病に苦しむ貴族や富裕層の人たちの信望を集めました。