映画監督の小津安二郎は女優の原節子を自身の作品にたびたび起用した。しかし、その役柄は理想の娘、理想の未亡人、理想の母であり、理想の妻ではなかった。評論家の長山靖生氏は「小津は自分で定めたルールに従い、『自分の仕事』を全うしたのだ」という――。

※本稿は、長山靖生『独身偉人伝』(新潮新書)の一部を再編集したものです。

最新のデジタル技術で修復される小津安二郎監督のカラー作品『お早よう』。技術者が手作業で傷などを取り除く=2013年8月7日、東京都品川区
写真=時事通信フォト
最新のデジタル技術で修復される小津安二郎監督のカラー作品『お早よう』。技術者が手作業で傷などを取り除く=2013年8月7日、東京都品川区

アメリカの女優にファンレターを書いた浪人時代

小津安二郎(1903~1963)は家族をテーマにした作品、それも娘の結婚を描いた映画で有名な監督ですが、それでいて自身は生涯独身。あれだけ女優を美しく撮るのですから女性に関心がないはずはなく、おまけに当人は長身の紳士でもあったというのに、実に不思議です。

小津安二郎は、本居宣長も出した伊勢松阪の名門商家・小津家の一員として生まれました、幼少期は一時東京に住み、小学校の途中から松阪に移り、三重県立第四中学に進みます。この中学時代に映画ファンになり、次第にのめり込んでいくことになります。

カメラ好きの少年でもあり〈僕の写真もずいぶん古いもので、はじめてキャメラをいじったのが中学生時分にベス単、それからブロニー〉(石川欣一との対談「カラーは天どん 白黒はお茶漬の味」、『カメラ毎日』1954年)と語っており、なかなか贅沢なカメラ小僧だったことが分かります。

ちなみにベス単とは「ヴェストポケット・コダック」という小型カメラ。カメラ好きはその後も続き、ライカも1930年前後に購入しています。

長山靖生『独身偉人伝』(新潮新書)
長山靖生『独身偉人伝』(新潮新書)

映画好きが高じるにしたがって中学後半はかなりの不良になっており、卒業後は家系に則って商業の道に進んでほしいという親の求めに従って神戸高等商業、名古屋高等商業を受験しましたが、いずれも不合格。

翌年には三重県師範学校を受けましたがダメでした。小学校の代用教員を一年務めたのち上京し、けっきょく小津は叔父の紹介で1923(大正12)年に松竹に就職しました。

これが小津の当初からの計画だったかどうかは不明ながら、浪人中も映画は欠かさず、アメリカの女優にせっせとファンレターを書いており、確信犯の匂いがします。

ちなみに小津は、1924年に徴兵年齢となり、一年志願兵(その方が期間が短い)として兵役につきますが、能力も統率力もあるのに、わざと軍曹試験に落ち、合格者より先に除隊しています。一日でも早く撮影所に戻りたかったのです。