若き日の大八木弘明、その苦労

福島県出身の大八木監督は中学3年時にジュニア選手権(現在のジュニアオリンピック)の3000mで5位に入ったが、会津工業高では故障と貧血で思うような活躍はできなかった。

さらに家庭の事情により大学進学を諦めざるをえず、高校卒業後は小森印刷(現・小森コーポレーション)に就職。そこで競技を続けることになった。

当時は競技面で優遇される現在の実業団とはまったく異なる。

大八木監督は「部品管理」を任されており、主にラインに決められた部品を運ぶのが仕事だった。季節によって使える時間帯は変わるものの、就業中の練習時間は1~2時間しかない。その後はまた通常業務に戻り、残業もこなして、帰宅は22時ごろになることも多かったという。フルタイム勤務に近いかたちのなかで、ガムシャラに練習を続けた。そのなかで競技力をあげていくと、高校時代に抱いていた“夢”が大きくなっていった。

「やはり箱根駅伝への憧れがありましたね。福島県内の同学年でも大学に進学して箱根を走った選手もいました。だから箱根を走ってみたいなという気持ちと、大学に行くなら強くなってから進学しようという考えがあったんです。なぜかというと、自分ひとりでやれるものを身に付けてから行けば、監督を頼りにしなくても結果を残せると思ったからです。また将来は指導者になりたいなという気持ちもありました」

大八木監督が駒澤大学経済学部2部(夜間部)に入学したのは24歳。「勤労学生」として川崎市役所で働きながら夢を追いかけた。川崎市役所の出社は朝8時半。16時半に退社して、夜は大学に通った。一体、いつトレーニングをしていたのか。

「朝練習はやったりやらなかったりでしたけど、昼休みにやっていましたね。12時から8kmくらい走って、すぐに昼食を食べて、13時から仕事をしていました。夕方は授業までの間に1時間半くらいは練習できたんです。職場近くに東急のグラウンドがあったので、そこでよく練習をさせてもらっていました。かなり集中してやっていましたね。平日はスピード練習が中心で仕事のない土日に時間のかかる距離走。そういうパターンを自分で確立してやっていました」

そのなかで箱根駅伝は1年時(84年)に5区で区間賞、2年時は2区で区間5位、3年時に2区で区間賞。4年時は年齢制限(当時は27歳以下)のため出場できず、伴走のジープに乗り込み、選手たちを鼓舞している。

「練習後は、バイクで丸子橋を渡って大学まで行くと20分もかからない。とにかく時間が限られているので、自分で細かくスケジュールを立ててやっていました。分刻みで、毎日かけずりまわっている感じでした。昔から逆算しながら自分で計画を立てて動いていたので、その経験が今の指導にも生きていますね。スケジュールがパンッと当たると、結果も出るんです。ただ、あんなことを今やれと言われてもやりたくないよ。無我夢中で箱根を目指したし、指導者にもなりたかった。当時は『絶対にやるんだ』という気持ちだったのでできたんだと思います」