※本稿は、倉野信次『魔改造はなぜ成功するのか』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。
科学的な視点ばかりを追い求めた練習だけでは危険
合同自主トレで工藤公康さんに言われて、今も忘れられない言葉があります。
「同じ練習をした場合、俺はお前たちの倍以上の効果を上げられる」というものです。
逆に考えれば、私が工藤さんと同じ効果を得るためには、工藤さんの倍以上の練習量をこなさなければならないと言うのです。この言葉には衝撃を受けました。
この差は「意識の持ち方」から生まれるものです。この「意識の持ち方」とは自主トレを通じて工藤さんが最も口を酸っぱくして言っていたことであり、この前後で最も私が変わった点でもあります。
それぞれの練習を行う目的を理解すること、そして鍛えたい部分に意識を向けることによって、同じ練習をしても全く成果が違うということが理解できるようになりました。「この練習を何のためにしているのか、どういう効果を見込んでいるのかを考えずに身体を動かしているだけでは意味がない」と工藤さんに徹底的に叩き込まれたのです。
ただし勘違いしないでいただきたいのですが、質の高い練習を行えるということは、基礎体力がきちんとついているということでもあります。回復力が高い若いうちは、ひたすら量をこなして基礎体力を高めていくことも重要です。
また、それぞれのトレーニングを、「これをやったら絶対に上手くなる」と信じ抜いて行えるかどうかも重要だと私は考えています。
ひと昔前までは、科学的な根拠が無いまま、現代の知見からすれば合理的ではない練習が多く行われていました。今の練習の方が明らかに効率的ですし、活躍している選手の中にも「苦しいだけだった過去の練習は無意味だ」と公言する人もいます。コーチも、今の合理化した練習の方がより効果的だと考えている人も多いです。
しかし、私は全てそうだとは考えていません。科学的には無駄だと思えるような苦しい練習をしてきた経験も全てひっくるめて、今の自分が形作られていると思うからです。
自分が行ってきたどの練習に効果があり、どの練習が無駄だったのかを判定することが必要なのです。現代の考え方では無駄だと判断されてしまう練習を積み重ねてきたことがプラスに働いている可能性も決して否定できないと思うのです。
また、現在は正しいとされているトレーニングが、数十年後には別の理論に取って代わられる可能性もあるでしょう。今の理論が最上であるかどうかなど、誰にも判断できないのです。
合理的な練習を否定するわけではありませんが、科学的な視点にばかり囚われてしまうことで気づかぬ内に自らの可能性を閉ざしているのかもしれない、という認識を忘れてはいけないと感じています。