イオン創業者、岡田卓也さんはどんな経営者だったのか。ケンタッキー・フライド・チキン(以下KFC)の1号店の店長から3代目社長まで勤め上げ、現在はオーナー経営者として活躍する大河原毅さんに岡田さんの知られざる素顔を聞いた――。
ケンタッキー・フライド・チキンの看板
写真=ロイター/アフロ
2021年12月14日、ケンタッキー・フライド・チキンの看板(東京)

クリスマスにフライドチキンを食べるのは日本だけ

――「クリスマスにフライドチキン」を広げたのは大河原CEOだそうですね。

オープン当初、たまたま店の近くのミッション系の幼稚園から、「クリスマスにフライドチキンを買ってパーティーをしたいので、サンタ役をやってくれませんか」と言われたのです。当時は売上も苦戦していたので、大歓迎でサンタクロースに扮装ふんそうして、フライドチキンのバーレルを抱えて教室内を踊り歩きました。

それが評判になって、あるときテレビのインタビューを受けたのです。そこで、「アメリカではクリスマスにチキンを食べるのか」と聞かれたので、本当はターキー(七面鳥)と知っていたのですが、つい「はい」と答えてしまって。それからです、日本では「クリスマスにはケンタッキーのフライドチキン」となったのは。

日本1号店は名古屋、「ジャスコの駐車場」が原点

――よくある企業のマーケティング戦略が大成功したのですね。それで、ケンタッキー・フライド・チキンが一気に広まったんでしょうか。

最初は本当に大変でした。1970年11月23日に、日本の1号店をオープンしました。ジャスコさん(当時)が名古屋の西区に郊外型のショッピングセンターをつくるということで、そこの駐車場にプレハブでの店舗がスタートでした。

大河原毅さん
大河原毅さん(写真提供=大河原毅)

名古屋といえば鶏の本場だから、さぞかし売れるだろうと思って期待していた。当日も、オープンするとわーって人が店を取り囲んだから、これはすごいぞと、どんどん鶏を調理しはじめたら、鶏ができたころには誰もいない。

名古屋では、お祝いの花が出ると、みんなそれをもらいに来るんです。それで花だけもらって、店には入らずにそのまま帰っていってしまったという、苦い思い出です。

赤と白の三角屋根の店で、お客さんは何を売っているのかもわからない。フライドチキン自体馴染みがなかったのでしょうね。それからはもう売れなくて塗炭の苦しみです。1年ちょっとで閉店しました。ですから私は日本で最初にKFCを開けた店長でもあるし、最初に閉めた店長でもある。