北朝鮮問題でも展開されたセカンド・トラック外交
このような他者には遂行できない特殊な仕事を行う笹川会長は、実際に他に類例を見ない特殊な人物である。その存在そのものが特異であると言って過言ではない。今回のミャンマーでの動きと似た笹川会長の行動は、過去にも見られた。劇的な事例の一つが、1990年代の北朝鮮だ。
笹川陽平氏(当時は日本財団理事長)は、1992年に平壌で金日成国家主席(当時)と会談した。長時間にわたった会談で、笹川陽平氏は、アメリカとの接触を、金主席に助言した。そして親交のあったカーター元米国大統領との会談を仲介することを約束した。
そのような経緯で実現したカーター元大統領の訪朝は、折しも北朝鮮の核開発危機の緊張が高まった1994年に実現した。北朝鮮に対する爆撃を討議する国家安全保障会議を開催していたクリントン大統領(当時)に北朝鮮から電話をしたカーター氏が、「金日成から核不拡散条約に再加盟することを取り付けた」と述べ、危機は回避された(*8)(なおこの時にカーター訪朝に懐疑的だったクリントン政権関係者に代わってカーター元大統領を助けたとされるのが、当時下院議員だったビル・リチャードソン氏である)。
民間外交官としての笹川陽平氏の働きがさらに論議を呼んだのは、1997年の第二回の北朝鮮訪問の際の「日本人妻の里帰り」問題だ。このとき、笹川陽平氏は、500人規模の北朝鮮人の妻として北朝鮮に渡った日本人の里帰りを、北朝鮮側に約束させている。北朝鮮側は、日本からの支援を強く望んで、渋々承諾した。ただし笹川陽平氏は、自分はあくまでも人道的見地から要請しただけだ、と強調した(*9)(*10)。