多方面に伸びる人脈

民主化前の軍政時代から、日本財団を通じて、笹川陽平会長はミャンマーに対する医療支援や学校建設に取り組んできた。多数派のビルマ人地域だけでなく、反軍政の武装勢力もひしめく山岳部の少数民族地域でも社会活動を行ってきたため、多方面に伸びる人脈を持つ。

ミャンマーのスクールバス
写真=iStock.com/Joel Carillet
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そこで民主化を開始した当時のテイン・セイン大統領に見込まれ、和平調停に関わるようになる。これに呼応した日本政府が、ミャンマー国民和解担当日本政府代表の肩書を笹川会長に与えた。2015年の国軍と8つの少数民族武装勢力との間の停戦合意の際には、式典に出席し、証人として署名もしている。笹川会長が、人道的活動の枠を超えて、和平調停と言うべき政治的領域に踏み込んで敵対勢力間の対話を促す役割を果たそうとしてきていることは、周知の事実である。

だが人道支援を主たる活動領域としていたはずの財団の会長が、日本政府代表として政治的調停者としても振る舞うことには、繊細な要素が含まれてくる。人道主義的見地からことさら中立的であろうとする立ち位置が、常に日本政府代表として調停をしようとする立場と一致するとは限らない。そこに「パイプ」があることはわかっているが、その「パイプ」がいったい何なのかは、よくわからないのである。

たとえば今回のミャンマー訪問で、笹川陽平会長はアラカン州にも来たとミャンマー系メディアで報じられている(*13)。もし、ミン・アウン・フライン最高司令官の意をくんで、最近になって戦闘が再発しているアラカン軍と国軍の間の停戦を調停しようとするならば、それは全土で反抗に遭っている国軍を助ける行為に等しくなる。他の少数民族集団から見てだけではなく、反国軍の運動に参加しているビルマ人の若者にとっても、全く中立的には見えない行動だ。まして停戦の見返りのようにアラカン州に人道支援を入れるなどということになったら、物資の枯渇にさらされている他の地域の人々から見て、なおいっそう中立的ではない。

笹川会長は、あるときは「日本政府代表」、別の機会は「日本財団会長」、次の日には「個人の資格で」といった言い方を使い分けているつもりなのだが、果たしてそのような操作に実質的な意味があるかは、疑わしい。確かに、笹川会長ほどミャンマー社会に浸透している日本人は珍しい。しかしだからといって、特に現在の大混乱の最中に、全てのミャンマー人から中立的に等しく信頼される形で行動できるかといえば、それは極めて難しいだろう。すでに国軍寄りの人物だという評判を相当に高めてしまっているのが、その証左である。