帝国主義化が太平洋戦争の原因なのか

コンストラクティヴィズム(構成主義)の視点からすると、明治維新以降、日本は「社会化(socialization)」によって、西洋列強の帝国主義を内面化するに至り、その一つの帰結が太平洋戦争だったということになる。

江戸幕府による鎖国政策が続いた後、ペリーの黒船来航を契機として、日本は国際システムの社会化の波にさらされることになった。当時の国際政治では権力政治がスタンダードな規範であり、西洋列強は帝国主義を掲げて、アジア・アフリカ等の非西洋圏の国々を次々と植民地化していった。

その結果、植民地を保有して、領土を拡大していくことが国際的地位の確立にとって重要となり、日本も脱亜入欧、富国強兵を掲げて、先進的な西洋列強の帝国主義を模倣していったのである。

このようにして、リベラリズムとコンストラクティヴィズムは太平洋戦争の原因について、各々興味深い説明を提供してくれるが、戦争の原因について、これまで最も多くの研究を残してきたのはリアリズムである。

リアリズムは、トゥキュディディディス、マキャベリ、ホッブズ、モーゲンソー、ウォルツ、ミアシャイマーと連なる国際政治学におけるもっとも有力なパラダイムである。

リアリズムにおいては、国際システムのアナーキー(無政府状態)、権力政治(権力をめぐる闘争)、部族主義(tribalism:個人でなく集団が主要単位)といった考え方が前提とされる。そこで、本稿ではこのリアリズムの視点から、なぜ日本は太平洋戦争に踏み切ったのか、という重要な問いを再考していきたい。

戦前にとりえた3つのオプション

1937年に盧溝橋事件が勃発すると、近衛政権はそれをエスカレーションさせて、終戦の1945年まで続く日中戦争の泥沼にはまった。これにより、日本は中国への進出を本格化させたのだが、同時に、中国国民党を支持するアメリカと外交的に対立することになる。

1940年、フランスがヒトラーに敗れた後、日本はその機会に乗じて仏領インドシナへの支配を拡大した。この時、日本がとりうる戦略には、大別すると、3つのオプションがあった。

ナチスによる火災後のオラドゥール・シュル・グラヌの村の一部の遺跡
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第一のオプションは北進、すなわち、対ソ侵攻である。既に満州の国境沿いでは、ノモンハン事件として知られる、日本軍とソ連軍の間に軍国主義的な衝突が起きていたため、日本のエリートたちは、満州の国境沿いで日ソ戦争が再び起きるのではないかと心配していた。

もっとも、こうした懸念が1940年から1941年に松岡外相により追求された四国協商構想(日本、ドイツ、ソ連、イタリア四国の間の協商)の背後にあったのだが、1941年6月22日にヒトラーがソ連に対して不可侵条約を無視して侵攻を始めたことで、日本の対ソ和解の戦略的意義は事実上失われることになる。

第二と第三のオプションは実際に採用されたものである。第二のオプションは、南進して、日本が必要とする石油を持つオランダ領東インド(現在のインドネシア)を占領することである。

第三は、対米開戦という最もリスクが高いオプションである。それでは、なぜ日本は約8倍の潜在国力を有するアメリカに対する、勝ち目のない戦争に踏み切ったのだろうか。以下では、太平洋戦争の起源をめぐる、①国際システムの三極構造、②脅威に対するバランシング、③ログローリングと「帝国の幻想」、という三つのリアリスト的説明を紹介したい。