死という事実を見据えることが供養となる
この記事に目がとまったあなたは、ひょっとしたら、愛する人を亡くしたことがある人かもしれません。
そして、その人の死をまだ受け入れることができない状況にある人かもしれません。
だとするならば、少し覚悟をもってこの記事を読み進めてください。
なぜなら、愛する人の死を受け入れるには、痛みが伴うからです。
けれども、その痛みを乗り越えて、愛する人の「死」を受け入れることができたとき、あなたの「生」が変わります。
愛する人を失った悲しみを癒やし、「死」という真実を真正面から見据えたとき、あなたの「生」に変容が起こるのです。
そしてその、あなたに起こる変容こそが、今は亡き、愛する人にとっての、供養となるのです。
人々が逃れようとする死に挑んだお釈迦さま
私は「お寺の子」として育ちました。
私が初めて、お経本を持たされたのは、三歳のときでした。
初めて「葬儀」に連れていかれたのは、五歳のときでした。
以降、僧侶として、これまで2000人以上の方々の葬送に立ち会ってきました。
いま、あらためて思うことは、私たちの生に「確実」はない、ということ。
私たちの人生に「絶対」はありません。唯一あるとしたら、「死」だけです。
「死」だけが確実であり、「死」だけが絶対なのです。
さらに、死は平等です。
何一つ平等でない人生があって、死だけは平等です。
人種にかかわらず、性別年齢にかかわらず、国籍にかかわらず、社会的地位の高低にかかわらず、お金の有る無しにかかわらず、人格の善悪にかかわらず、すべての人が、等しく死んでいきます。
だからこそ人々は、死から逃れようとしてきました。
欲望を満たすことや、夢を追いかけることによって、死をはぐらかそうとしてきました。
そして、決して死なない、永遠なるものを想像してきました。
天国、極楽、神……。死の恐怖から逃れるために、死の不安を和らげるために、人々は、さまざまな幻想を創り出してきたのです。
しかし、今から約2500年前のインドに、その「死」をはぐらかすことなく真正面から見据え、挑んだ人物がいました。
お釈迦さまです。