両親の背中が教えてくれた「人に親切にする」こと
「三喜経営」は、両親の背中から学んだ教えです。
齊藤家というのは来客の絶えない家で、毎日たくさんの人が来ていました。父は分家なのですが、分家した先の周囲の農家が田や畑や桑畑だったのを見て、収入のいいぶどう栽培に転向する手助けをして、地域の世話役のようになっていました。
自分のぶどう畑には雇い人がいますから、自身は地元を回って棚の作り方やら剪定の仕方やらを教えていました。そういうことをするのが、好きだったのでしょうね。
また、拡大志向の強い人で、ぶどう栽培だけではなくワイナリーのほか、戦後は干しぶどうの事業なども手がけていました。買い付けに来た市場の人が旅館代わりに泊まっていったり、僕の小学校の先生までが、帰宅途中に毎晩うちに寄っては父と一杯やって帰ったり、とにかく賑やかな家でしたね。
一方、母はといえば、父との結婚を機に女学校の先生を辞めたのですが、面倒見のいい母を慕って生徒たちが「もっと教わりたい」と集まってきて、しばらく齊藤家の二階が私塾のようになっていたこともありました。多いときは50人ぐらい、裁縫やら作法やら教わりに来ていたと思います。
そんな家だったのですが、僕が高校生ぐらいのときに、アメリカから大量のカリフォルニアレーズンが日本に入ってくるようになって、干しぶどうの事業に失敗し、大きな借金をすることになってしまいました。そんなとき、それまで父がなにくれとなく世話をしていた人々が、「齊藤を助けろ」と資金を出し合ってくれたりしたのです。
そんな姿を見ていましたから、「利他の心」で誰かのためになることをしていれば、まわりまわって自分に返ってくる、人には親切にするものだということを学んだのだと思います。
いまも毎日両親の仏壇に手を合わせ、話しかけている
どんなに大変なことがあっても、絶対に人の悪口を言わない母からは惜しみない愛情を、仕事に厳しい父からは働くとはどういうことなのかを、みっちり仕込んでもらいました。長男の僕ばかりが厳しく怒られるので、もしや実の父親ではないのではと疑うくらいだったのですが、鏡を見れば見るほど僕は父そっくりなのです。
残念なことに、父は僕が27歳のときにがんで亡くなりました。
手術を控えて泊まった旅館で父と一緒に風呂に入ったとき、「そっちを向け。背中を流してやろう」と言われ、父の手を背中に感じながら「あれだけしごかれたのは、僕を一人前にするためだったんだ」としみじみ思いました。
「甘太郎」の成功を喜んでくれた父ですが、「おい、ぶどうやワインも忘れるなよ」と言われたことが、後年ワイナリーを手がけるようになったことにつながっています。
いまも毎日両親の仏壇に手を合わせ、生きている人に話すように話しかけています。「おかげさまで今日も一日終わりました」とお礼を言ったり、「今日は少し間違ったことをしてしまいました」と詫びたり、「教わった通り、こんなことをしましたよ」と報告したり。
そうやって床に就くと、不思議なことにいい発想がぱっと浮かんできたりするのです。ただ、朝になると忘れてしまうので、電気もつけずに急いでメモするようにしています。