非常事態でとっさに判断するために

人間は「野生の勘」と「誰が何と言おうと自分が正しいと感じるもの」を信じるほうがいい──そんな人世訓を、大川小学校の悲劇は伝えているように思えてならない。

しかし、多くの人はさまざまな規則や社会通念に無自覚のうちにがんじがらめにされており、そこから逸脱しないよう相互監視しながら従順に生きることに何の疑問も抱いていない。怖いのは、他人から非難を浴びること。それを恐れて、自分の判断や本心を封印してしまう。平常時であれば、そうした生き方でもどうにかなるだろう。だが、いざ非常事態となったとき、とっさに判断できなかったり、正しい選択が取れなかったりするのではないか。

たとえば、裏山に逃げようとした大川小学校の児童たちの心の動きを想像すると、このような流れになると思われる。

・大半の大人たちから「先生の言うことを聞きましょう」と教えられてきたし、先生が言うことは基本的に正しいはず。
・裏山に逃げたら、先生が「戻って来い」と言った。だから、それに従わなくてはならない。
・津波については自分なりに知識があるつもりだし、もし巻き込まれた場合はかなりの確率で死ぬということもわかっている。
・だから、少しでも高いところに逃げるほうがいいと思うのだけど、先生は裏山のほうが危険だから堤防に向かうと言っているし、それに従うしかないか。みんなもそうするみたいだし。

誰かにモノ申す行為には、甚大な責任が伴う

他人(とりわけ権威を持つとされる者)から何かを言われたら、多くの人間はこうした思考法になってしまうのである。しかしながら、誰かに何かを言う行為は、本来、甚大なる責任を伴うものなのだ。だから私は、他人に「○○しろ」などと絶対に強制しない。「会社を辞めたほうがいいか」「パートナーと別れるべきだろうか」といった人生の一大事について意見を求められた際には、あくまで慎重に、しかし嘘偽りなく自分の「感覚」を伝えるようにしている。他人に命令したり、自分の考えを押し付けたり、相手を変えようとしたりすることほど無礼なものはない。その結果、相手に起こる事柄に対して、自分は責任を負えないからだ。

さらに私の場合、多少不遜に聞こえるかもしれないが「自分の判断こそ至高であり、正しい」という妙な自負がある。また、仮にその判断が正しくなかったとしても、決して誰かのせいにはしない、という覚悟もある。何事も、あくまで自己責任。そう強く言えるから、承服できない他人の意見には耳を傾けないし、容易に自分の主義主張を覆さないのだ。