「強制や制裁はワクチン懐疑者の不信感をさらに強める」
ワクチンパスポートを事実上、導入した大規模イベントはどういう結果を招いたのか。サッカーのユーロ2020では6万人以上を収容した決勝でスタジアムや周辺にいた2295人がすでに感染していたとみられ、3404人がイベント時に感染した疑いがあるという調査結果が英政府から発表された。ウェンブリー・スタジアムでユーロ2020を観戦した人の中から9402人の陽性者が確認された。テニスのウィンブルドン選手権では延べ約30万人を動員したものの、感染者は881人にとどまった。8月中旬、英南西部コーンウォールで開催された音楽とサーフィンのイベントで参加者の約1割に当たる約4700人が感染した可能性があることも分かった。
ワクチンで死亡や重症化リスクを劇的に下げられても感染を完全には防ぐことはできない。2回目の接種から6カ月以上が経過すれば免疫は低下する。
ワクチン忌避やニセ情報の解消に取り組む「ワクチン信頼プロジェクト」の共同ディレクターを務めるロンドン大学衛生熱帯医学大学院のポーリーン・パターソン准教授はこんな例え話をする。「もし青い錠剤をのむように勧められ、のまないと友だちと出かけてはいけないと言われたら、あなたは青い錠剤を今まで以上に信頼するだろうか、それとも信頼しないだろうか」
「ワクチンを接種していない人をナイトクラブやイベントから排除することはワクチン接種率を高める方法にはならない。ワクチン接種をためらう人たちの不安を和らげるどころか、逆に固定化させてしまう危険性がある。われわれのプロジェクトで1万7000人を対象に調査した結果、ワクチンパスポートはワクチンを接種するかどうか迷っている人の気持ちを後退させてしまう可能性があることが浮き彫りになった」
パターソン准教授は「ワクチンを接種しないという選択をした人に社会的・経済的制裁を加えることで接種を促進しようとすると、逆にワクチンに対するためらいや不信感が増してしまう。雇用主からワクチン接種を迫られていると感じている医療・福祉従事者でさえ、ワクチンを接種する可能性は下がるという結果が出ている。ワクチンパスポートは偏見や隔離を助長する危険性があり、長期的な感染症予防を妨げる恐れがある」と指摘する。
包摂の視点で透明性のある議論を
日本では戦後、感染症による犠牲者が多数発生し、百日咳、腸チフスなど12疾病を対象に罰則付きの接種が義務付けられた。しかし予防接種による健康被害が社会問題化し、1976年に罰則なしの義務接種に移行した。予防接種禍訴訟で国の敗訴が相次ぎ、94年の改正予防接種法で義務規定は努力義務規定となり、予防接種行政は「社会防衛」から「個人防衛」に軸足を移した。努力義務は義務とは異なり、本人が納得した上で接種を判断する。
その後遺症で日本は「ワクチン後進国」になり、2013年、子宮頸がんなどを引き起こすヒトパピローマウイルス(HPV)に対するワクチンの悪影響の恐れが報じられた結果、70%の接種率が1%に低下する“事件”が起きた。この結果、少なくとも2万4600件の子宮頸がん症例と5000人の死亡が多く発生する恐れがあるという研究結果も報告されている。背景には厚生労働省の予防接種行政が透明性や説明責任を欠いてきたという暗い歴史がある。
コロナワクチンでもごくまれに出る深刻な副反応で死亡に至るケースがある。「悪魔のくじ引き」と呼ばれるワクチン接種をワクチンパスポートによって事実上、強制することは倫理上の問題を呼び起こす恐れがある。「排除の論理」ではなく「包摂の視点」からワクチンパスポートを公に議論しないとワクチンへの信頼度を逆に低下させてしまう恐れがある。