母が最期に教えてくれた“天職”
転院の日、長女も次女も仕事で来られず、転院のためのサポート要員として父親に呼ばれた和栗さんは、しぶしぶ中部地方から馳せ参じる。
父親があらかじめ呼んでおいた介護タクシーに、酸素マスクをつけた状態の母親をドライバーと3人で乗せると、車は病院を出発。介護タクシーのドライバーは、母親にとってこれが最後の外出だと知っていたためか、道路沿いに色とりどりの花が咲き乱れる道を選んで走ってくれた。
すると、認知症の症状が進み、和栗さんをお手伝いさんと勘違いしていた母親は、「きれいね」と言い、とても穏やかな表情を和栗さんに向ける。そのとき和栗さんは、「介護タクシーのドライバー」という職業に強い興味を持った。
「『酸素マスクをつけたままの、母のような重病の患者でも車に乗せられるんだ!』と感動しました。もともと車が好きで、子供が小さい頃はダンプカーに乗っていたこともあった私。高齢者を相手する仕事に抵抗感はないことを考えると、『もしかして、この仕事は天職ではないか?』と思いました」
和栗さんはすぐさまドライバーに、「どうしたら介護タクシーの運転手になれますか?」と質問。翌日、旅客運送のために必要な普通二種免許を取得するため教習所と、介護職員初任者研修(旧ホームヘルパー2級)の講習会の申し込みをした。
「介護タクシーの運転手になったら、母を車に乗せ、生きているうちにいろんなところに連れて行ってあげたいと思っていました」
母に対する憎しみや嫌悪感が消えたわけではない。だが、人生の最終盤を迎えた親に自分は何もしなくてもいいのかという良心の呵責を感じていたのだ。
しかし、その後も母親のがんは進行。認知症の症状も進み、会話もままならなくなる。
そして2009年5月、和栗さんの介護タクシーに乗ることなく、母親は死んでしまった。73歳だった。
「後で知りましたが、父が私に連絡してきたとき、すでに母は余命宣告を受けていたようです。ターミナルケア病院へ転院する際に再び余命2カ月と宣告され、そのとき初めて、『本当に死ぬんだ』と悲しくなりました。それまで私は、母を失うことをまるでひとごとのように思っていたのです。今一番、後悔していることは、母のことも病気のことも、何も知らないままで通してしまったことです」
和栗さんは、母親の死ぬ間際、どさくさに紛れるような形で「お母さん!」と言ったが、しっかり意識があるうちに「お母さん」と呼んであげられなかったことが心残りで、骨壷に「お母さんへ」と題してメッセージを書いた。
母親の死後、教習所での普通二種免許も、介護職員初任者の資格も取得できた。すぐに介護タクシーの会社に就職するが、「研修で学んだだけの、知識や経験不足のままでは、患者さんに触れることさえ怖くてたじろいでしまう。何とかしなければ」と考えた和栗さんは、実務経験を積むために、訪問介護バイトと障害福祉バイトをスタート。
和栗さんが介護タクシーのドライバーとして自信が持てるようになったのは、母親の死から約3カ月後のことだった。