「もう1回、牛飼いをやり直した感じ」
うつ病の治療中は、妻のあつみさんがひとりで牛の世話をし、子牛を市場に出荷するときは削蹄の兄弟子が手伝ってくれました。当然、もどかしく感じますが、体が言うことをききません。なにもかも嫌気がさして薬を飲みすぎ、危険な状態になってしまったこともありました。田中さんを救ったのは、そのときのあつみさんの一言。
「なにもしなくていいから。漫画を読んでるだけでいいから。生きててくれたら、それでいい」
この言葉を聞いた瞬間、肩の荷がすっと下りた気がしたそうです。
「見返すためにとか、承認欲求のためにいろいろやってきた部分もあったけど、自分の身近に大事な人がいたんだ、ぜんぜん周りが見えてなかったなって気付いたんです。妻だけじゃなくて、『お前、あほか』と言って、僕のことをまったく認めてくれなかった近しい人たちが、離れることなくずっと待ってくれましたし、支えてくれました。そういう人たちがいるから、これまで自由に仕事ができていたんだと思い知りました」
あつみさんや周囲の助けもあり、1年をかけて回復した田中さんは、足元を見つめ直しました。
それまでは周囲の同業者をライバル視し、大学で勉強したことや最新のセミナーで学んだ海外の技術のほうが優れている、俺のほうがすごいと思っていたそうです。そのプライドを捨てて、地元の繁殖農家の先輩たちに頼み込んで、イチから子牛の見方を教わり、「自分の牛を見てください」と頭を下げました。このときのことを、田中さんはこう表現します。
「もう1回、牛飼いをやり直した感じ」
理想の牛づくりへの歩み
畜産業界の常識に染まらず、放牧やブログ、パートナー制度など思い立ったらやらずにいられない田中さんは、地元で浮いた存在でした。しかし、この後、地元の同業者との距離が縮まり、牛の状態も以前と比べてどんどんよくなっていきました。
ここから、田中畜産の本当の飛躍が始まったのです。2016年頃から子牛市場でも安定して高い評価を得られるようになり、「これで食べていける」と自信を得られたそう。
今も積極的にSNSで情報発信する田中一馬さん。YouTubeのチャンネル登録者数は2.5万人を超えました(2021年9月時点)。
2002年に就農してから、今年で節目の20年。いち早く情報発信やファンとの交流を始めた田中さんは、今やSNSを縦横無尽に使いこなしています。
経産放牧牛の肉は大人気で、昨年4月にオンラインで販売した際には、牛一頭分、350人前の肉が8分間で売り切れました。
地域に根を張りながら、独自の道を切り拓いてきた異端の牛飼いは、理想の牛づくりにも着実に近づいています。
「それまでは、こういう牛を育てたいというのもなかったんです。でも、いろんな先輩に教えてもらって、病気せずにすくすく大きくなる強い子牛をつくりたいというゴールが見えました。そこのすり合わせができて、この3年ぐらいでようやく納得のいく牛がつくれるようになってきたんです。ようやく、ちょっとは牛のことがわかってきたかなとは思えるようになりましたね」
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