「9年間赤字でもいい。年収60万でもいい」
「やるからには本気で独立の道を探ろう」と、研修先ではなんでもがむしゃらに取り組みました。しかし、毎日のように親方から怒られる日々。
「先行きがまったく見えず。正直、しんどかったです」
独立したらどうなるんだろうと就農計画を立てると、9年間赤字で10年目に年収60万円という数字が出ました。研修を始めて1年、「どう考えても独立は無理だ」と感じた田中さんは、それまで学費や生活費などをサポートしてくれた両親に申し訳なく思い、実家に電話をしました。
しかし、電話に出た母親にいざ話をしようとすると、親方や牛の姿が脳裏によみがえりました。それは、生まれて初めて夢に向かって必死に取り組んだ記憶でした。受話器を握りしめながら涙があふれ、それはすぐに嗚咽に変わりました。結局、肝心なことは何も言えないまま電話を切りました。その日、腹をくくったのです。
「9年間赤字でもいい。年収60万でもいい。この世界でやれるとこまでやってみたい」
田中さんは休学中だった大学院を辞めて退路を断ち、親方に頭を下げて研修を1年間延長しました。
ぎりぎりの生活
1年目以上に、真剣に研修に臨んだ田中さん。次第に、親方や周囲の反応が変わっていきました。それが、「どう考えても無理」と考えていた独立につながりました。
2年目の修行を終えた2002年、「田中畜産」設立。農協を通して、新規就農者が無利子で借りられる200万円を借り、軽トラックと妊娠している雌牛を5頭仕入れると、親方の牛舎の空きスペースを借りて、その牛たちの世話を始めました。
「2年間研修しても、先の見通しは何も変わりませんでした。でも、1年目と2年目で明らかに親方や周りの農家さんの反応も変わって。こいつはほんまにやるやつやなって思ってもらえたのが、大きかったですね」
念願の起業を果たしたものの、最初の数年間は手探り状態でした。
起業の翌年、最初に買った5頭が無事に出産。そのうちの1頭の雌牛は母牛にするために残して4頭を売りましたが、2001年末から2002年にかけて、世界的に狂牛病が大きな問題になっていたため、1頭30万円の値段しかつかず、4頭で120万円。
この金額で生活をしながら牛の世話をできるはずもなく、親方やほかの繁殖農家、肥育農家の手伝いもしないと生活ができませんでした。
繁殖農家は子牛を売るビジネスで、母牛は一回の分娩で一頭しか子どもを産みません。ということは、母牛の数が増えない限り、収入も増えません。田中さんは乏しい資金をなんとかやり繰りしながら、1頭ずつ母牛を増やしていきました。
「頭数が少ない時期はすごく苦しかったですね。本当に少しずつしか前進できなかったから、はたから見たらもう趣味というか、お遊びみたいに見られていたと思います」