転換期の「危機感」が成長の原動力だった
日本では新時代の扉を開くとき、常に“危機感”が大事な役割を果たしてきた。古くは蒙古襲来に幕末の黒船来航、太平洋戦争敗戦後の復興も危機感をバネにして時代を乗り越えてきたといえる。70年代のニクソンショックやオイルショック、80年代の円高ショックなどの突発的な変化も強い危機感を生み、それが成長エンジンの原動力となった。
世界の変化に完全に置いてけぼりをくらった今もまた危機的状況にありながら、その危機感は薄い。
日本人は危機に際して優れた能力を発揮する一方で、一度内向きになると、どこまでも内向きのまま突っ走る危険な傾向もある。
黒船が来襲しても江戸幕府は自らを変えることができなかった。先の太平洋戦争でもミッドウェー海戦に敗れたとき、戦況を冷静に判断すれば、停戦講和に向けて交渉を始めるのが常道だろう。しかし、軍部主導で1億総力戦の集団心理に陥り、多大な犠牲とともに無条件降伏へと邁進した。
戦後の自民党政治や中央官僚制度も同じで、行き着くところまで行き着いてしまった。国民の多くがムダだと思っているのに景気対策に15兆円を投じ、世論の65%が要らないといっているのに2兆円の定額給付金を配る。国民生活そっちのけ。自公政権はもはや冷静な判断力を失っていた。
思えば戦後日本の優れた経済成長システム、工業化社会に適ったシステムというのは、80年代半ばまでに有効寿命を終わっていたと思う。より正確に言えば、85年の「プラザ合意」。あれが戦後日本経済のミッドウェーだった。
プラザ合意は日米経済戦争における日本の無条件降伏だった。以降ドルがフリーフォール(急落)して日本の輸出競争力は削がれる一方、国内に膨大な資金が流入して経済はバブル化する。外向きの巨大なエンジンを停止させられた日本は、内向きにエネルギーを溜め込むことになり、その圧力に持ちこたえられなくなって89年12月を境にバブルが崩壊した。