何を選択し捨てるのか?「友愛」ではまったく不明
経営におけるリーダーシップはすべて2つのことで成り立っている。一つは正しい方向を指し示すこと。もう一つは、やることとやらないことを明確にすること。いわゆる「選択と集中」である。
国家経営、つまり政治のリーダーシップも同じ。目指すべき国家像を指し示し、政策として何を優先し、何を捨てるのかを明示するのが政権与党の役割だ。
9月に発足した鳩山政権は、「政治主導」の第一幕として15兆円の補正予算の見直しに着手、目標だった3兆円規模の執行停止に何とかこぎつけた。
だが、そもそも断末魔の麻生自民党が選挙向けに無理矢理成立させて役所も取り扱いに困っていた補正予算だったのに、廃品回収よろしく各省庁から粗大ゴミを回収するように予算を引き剥がしているようでは甘すぎる。「政治主導」なら、これは要らない、あれも要らないと自分たちで取捨選択したうえで、「この予算が必要なら、その理由を挙げてこい」「見直し額が少なければ本予算を削るぞ」と官の鼻面を引き摺り回さなければいけない。
本来、15兆円の補正予算など要らないという発想を持ち、全額削ったうえで、そこから本予算に踏み込んでこそホンモノだろう。しかし、来年度予算の概算要求は、民主党がマニフェストに盛り込んだ子ども手当や高速道路無料化、農家の戸別所得補償などの新規政策の予算が膨らんで、過去最大の95兆円に達した。あれもやる、これもやるの「足し算」では経営は成り立たない。経営にとって大事なのは「引き算」の発想であり、この方向に資源を振り向けるから、これはやらないという選択と集中がリーダーシップには肝要なのだ。
鳩山首相は日本が目指すべき社会の方向性として「友愛」という理念を掲げている。しかしあまりに抽象的すぎて対立概念が明確でないし、「友愛」を選ぶ結果として何を選択し、何を捨てるのかがわからない。むしろ何かを捨てようにも、「友愛で私を守って」と言われたら捨てられなくなる。つまり「友愛」というのは、足し算になりやすい非常に危険な言葉となるのだ。