イスラム教には1カ月にわたり断食を行う「断食月」がある。つらくないのか。宗教学者の島田裕巳さんは「断食のとらえ方が日本人とはまるで違う。終了後にはいつもより豪華なご馳走を食べられるので、楽しみにしているほどだ」という――。(第1回/全3回)

※本稿は、島田裕巳『宗教別おもてなしマニュアル』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。

食事をする人
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日本における断食は「苦行」

日本でも断食を実践する人は少なくない。

健康法として断食を試みる人たちがいる。各地には、断食を実践する断食道場があり、ダイエットの方法としても人気を集めている。

こうしたことは日本だけではなく、各国で行われている。断食の効果についての研究も、さまざまに行われている。

だが、日本の場合にも、断食はたんに病気の療法、健康法としてだけではなく、宗教的な修行として実践されてきた。

食を断つことによって、欲望から離れ、精神を鍛えようというわけである。

信仰にもとづく断食としてもっとも過酷なのは、天台宗の総本山である比叡山延暦寺に伝わる「千日回峰行」のなかに含まれるものだろう。

それは「堂入り」と呼ばれ、5年700日にわたる回峰行を終えた行者は、足掛け9日間にわたって断食・断水・不眠・不臥の行に入る。

行者は、その間、お堂のなかで不動明王の真言を唱え続けるが、一日に一度だけ、仏に供える水を汲むために外へ出る。

最初はすぐに戻ってくることができるが、日を追うにつれ、歩く速度がゆっくりになり、からだは痩せこけていく。

日本では、断食は、長く続ければ続けるほど好ましいと考えられている。長く続けることで、空腹に耐える精神力が養われる。日本では、断食はそのように苦行の一つとされている。

イスラム教に「修行」という観念はない

それに対して、イスラム教徒は、断食を修行としてとらえてはいない。

そもそも、イスラム教には修行という観念がない。すべては神が定めたものなのだから、それを人間が変えることはできない。修行は、自分の力によってその人の状態や運命を変えていこうとする試みであり、イスラム教の信仰にはそぐわないのだ。

イスラム教徒が断食を行う上でもっとも重要視するのが、それをはじめる時刻と、それを終える時刻である。だからこそ、私たちはピザ店の前で断食明けの時刻を待たなければならなかった。断食をはじめる時刻も、それを終える時刻も、いずれも神が定めたもので、イスラム教徒はその時刻を守るのだ。

それは礼拝についても言える。

礼拝は1日5回行われるものだが、それぞれ時刻が定められている。たんに、1日に5回行えばいいというものではない。その5回のアラビア語と、時刻をあげれば、次のようになる。

ファジュル 夜明け前
ズフル 正午
アスル 午後
マグリブ 日没
イシャー 夜半

これに忠実に従うならば、イスラム教徒は毎日早起きをしなければならないことになる。

イスラム教の国なら、ファジュルの時刻になると、モスクから礼拝を呼びかける「アザーン」が聞こえてくる。アザーンは、神は偉大なりを意味する「アッラーフ・アクバル」を4回くり返すことからはじまる。

東京ジャーミイのイマームにインタビューしたとき、彼は夜明け前に起きて、東京ジャーミイに来て礼拝を行うが、その後は、また自宅に戻り、もう一度寝ると言っていた。