むろん、呪詛を避けるためにわざわざ改名し、律儀にも謝罪の手続きを踏んだことを考えれば、それはそれで彼のなかにも呪詛を恐れる気持ちがあったことは否定できない。
その点で、彼のなかには呪詛を不可避なものと恐れる中世以来の価値観と、呪詛すらも合理的に回避しようとする新時代の価値観が同居していたことになる。彼自身が、旧時代と新時代の境界的な存在だったといえるかも知れない。
時代は、呪詛を恐れない、呪詛を合理的に回避可能とする人々を、少しずつ生み出していたのである。
「呪詛の時代」の終焉
さらに、そこから考えを進めるならば、「名を籠める」呪詛は、決して古い時代から連綿と行われ続けたものではないことにも注意をする必要がありそうである。これまで呪詛を中世の宗教権力の特徴であるかのように述べてきたが、じつは領民に対する呪詛の事例はあまり室町時代以前には見られないのである。
どうも「名を籠める」をはじめとするエキセントリックな呪詛は、中世も後期に入って、宗教領主の命令に従わない百姓や武士たちが続出するなかで活用されるようになったようである。考えてみれば当たり前のことだが、当時の人々に神罰や仏罰を信じる気持ちがあったならば、そもそも年貢を半減要求したり、横領したりすることはなかったはずである。
だから、「名を籠める」という行為は、当時の人々が迷信に縛られていた証しというよりも、むしろ人々の心のなかから信仰心が希薄化していたことの表われとみるべきかも知れない。支配を継続するために恫喝的な手段を使わざるをえない、宗教勢力の焦りを示していると言い換えてもいいだろう。
昔の人々がつねに迷信深くて純朴だったと思い込んではいけない。
一見すると信心深い時代のように思える室町時代は、一方で“呪詛の時代”の黄昏の時代でもあったのだ。