改名は呪詛に対する対抗策だったのか

しかし、である。この一連の出来事を記す経覚の日記などを見てみると、不思議なことに気づく。上杉謙信が「景虎」→「政虎」→「輝虎」→「謙信」と名前を変えたように、この時代の人々が名前を変えるのは珍しいことではない。

孝景も、もとは「敏景」と名乗っていたが、長禄元年(1457)7月~同3年11月の間に「教景」と改名しており、この事件のときは「朝倉教景」と名乗っていた。実際、6月24日に修正手水所に「名を籠め」たときは「教景」という名前に対して呪詛が行われていた。

ところが、それから一カ月余り後の8月10日に二条邸に謝罪に現れたとき、経覚の日記のなかで彼の名は「孝景」と記されている。つまり、呪詛をうけた後、この1~2カ月の間に、彼は名前を「教景」から「孝景」に改名してしまったようなのである。あるいは、これは彼なりの「名を籠める」呪詛に対する対抗策だったのではないだろうか?

そもそも、『西遊記』に出てくる、その名を呼ばれて返事をすると吸い込まれてしまう銀角大王が所持する魔法のひょうたん(紫金紅葫蘆)の逸話や、わが国での妖怪や幽霊に名前を呼ばれても返事をしてはいけないという民俗禁忌のように、昔から洋の東西を問わず、名前にまつわる呪詛というものは存在した。

「名は体を表わす」の言葉どおり、前近代において、名前はその人本人と一体のものと考えられていた。そうした認識を前提にして、「名を籠める」呪詛は成立していたのである。

戦場の武士と祈る僧侶の絵
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改名した朝倉孝景のその後……

では、それを逆手にとって、呪詛された人が改名をしてしまったら、どうなるだろうか。

本家の『デスノート』では、そこに名前を書かれたら、絶対に死からは逃れられないという話になっていたが、さすがに対象者が法的に改名してしまった場合のルールは無かったように思う。しかし、その理屈でいけば、彼らも呪詛からは逃れることができるはずなのである。

どうやら朝倉孝景は、現代人が思いもつかない高度な裏技を編み出し、「名を籠める」呪詛を無効化しようとしていたようである。その後の歴史を見てみると、彼は応仁の乱の混乱に乗じて、けっきょくそれまで以上に荘園の侵犯を派手に展開して、ついには興福寺の2つの荘園を「半済」に陥れている。

彼は謝罪を完全に反故にしてしまったのである。やはり、彼は“最初の戦国大名”とよばれるに相応しい、新しい価値観の持ち主だったようだ(ちなみに、興福寺はよほど悔しかったのか、改名の事実を知らなかったのか、その後もしばらく朝倉孝景のことを「教景」と呼び続けている)。