※本稿は、岸山真理子『ケアマネジャーはらはら日記』(三五館シンシャ)の一部を再編集したものです。
47歳で念願のケアマネジャーになったが…
社会福祉協議会で登録ヘルパーをしながら、通信教育で介護福祉士の勉強に取り組んだ。介護福祉士の試験に合格すると、社会福祉士の資格も欲しくなった。1年間だけ休職し、清瀬の社会福祉士養成学校に通った。
娘が小学校に入学した年だった。「死ぬほど勉強が嫌いだったのに、40歳すぎて、やっと好きになったんだね」と母は喜んでいた。母は毎日、娘を学童保育まで迎えに行ってくれた。
社会福祉士の資格を取って、介護福祉士との合わせ技で介護業界に根を張りたいという一心だった。学生時代はあんなに苦手だった勉強も、誰かの役に立てる、実践に使えると思えば楽しかった。
家事と子育て、学習を組み合わせた日課は朝5時から夜10時まで、細部にわたってびっしりとルーティン化したものにしたため、ADHDへの対策にもかなり効果を発揮した。社会福祉士の資格取得後、老人保健施設で相談員として働いているときだ。
2000年4月、介護保険制度がスタートした。同時に「介護支援専門員(ケアマネジャー)」という新しい職業が日本に生まれた。
ケアマネジャーは、ショートステイや訪問介護、訪問看護、訪問入浴、デイケア、デイサービス、ベッドなどの福祉用具、住宅改修などのサービスを、要望と予算、要介護度、必要性に照らし合わせてコーディネートするのだという。
バラバラだったサービスをひとつのパッケージにして利用者に贈り届けるケアマネジャーのイメージに、私は夢を感じた。
二十数年間、いろいろなアルバイトや介護の仕事を転々とする中で、私はたくさんの人たちに助けられてきた。他人が頼りだった。これからはケアマネになって、知識と情報を利用者と家族のために使う、自分が誰かの役に立てる、そう想像するとゾクゾクするような快感を覚えた。
2000年11月、第2回のケアマネジャー試験に合格した。在宅介護を支えるケアマネが働く場所を、居宅介護支援事業所(略して居宅)という。私は老人保健施設を辞めて、介護業界大手の株式会社が経営する事業所に就職した。しかし、“夢の職業”は甘くはなかった。